差し伸べられる手~競争と連帯感のはざまで

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Photo by taka (7D)

去年の11/3の夕暮れ。この写真を見る限り、今日と同じように秋晴れの日だったのだろうか。そして、ぼくはどんな心持ちで過ごしていただろう。過ぎ行く日々を眺めながら、想いに浸っていただろうか。

先日ブログに書いたヘンリ・J.M.ナウウェンの著書「差し伸べられる手」である。
正直なところ、なかなか、読み進めらず、投げ出してしまいたい気持ちもある。

このような気持ちになるとき、大抵、(まだ読むべきときが来ていないのだ。)と自分で納得し、本棚に立ててしまい、最悪、それっきりになってしまったりするのだが、今回は読み進めたい、という気持ちも強く、なんとか食らいついている感じである。

後から並行して読み始めた本が読了してるぐらいだから、ノリで読めない本であることは確かだが、なんというか、共感出来る文章が多いのだ。

以下、引用してみる。

パーティーや友だち同士の集いなどのあとで、空虚な思いがしたり、物悲しくなったりするのはどうしてだろう。おそらくそうした場所でも、集まっている人たちが心の奥底でしばしば無意識でさえある競争意識に取り付かれていて、自然な形で自分を表現したり、その場だけの交わりを超えて長続きのする関係を結ばないからだと思われる。
「第一章 苦しい孤独 競争と連帯感のはざまで」(P21)より

読み始めてすぐのところなのだが、いきなり、自分の感情の動きを言い当てられた気がした。

このような感覚は、誰もがなるものであろうか。ぼくは、この本のこの部分を読むまで、ぼく特有の気持ちなのかと思っていたかもしれない。(もちろん、冷静に考えれば、そんなわけないのだが)そして、空虚な思いを経験するたびに、このような場へ近づくのはやめよう、と思い続けて来た気がする。

確かに、集いにいる人たちが、まったく無関係の見ず知らず人たちであれば、空虚になることもない。そこに自分と関連した人や知人がいると、空虚になったり物悲しくなったりするのである。そして、それをヘンリさんは無意識のうちの競争意識の表れだという。

何の競争かと言えば、それは連帯の競争である。そこにいる誰よりも多くの人と連帯しようとするのである。だが、それは、相手のあることだから、そう思ってすぐに出来るものではない。そのあせりが物悲しさにつながっているのかもしれない。

最近のぼくは、世間の評価など何の足しにならない、どうでもいいこと、と思っていて、陰口、悪口、どんとこい、という感じだし、まして誰かと連帯していたいなど、そんな面倒なことは避けたいと思う方で、競争など思いもしないのだが、それでも、まだ、引用した部分のような体験をすることがあるのは、無意識のうちに連帯しようとしている表れなのかもしれない。それは、ある意味、発見と言えば発見である。

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差し伸べられる手―真の祈りへの三つの段階
ヘンリ・J.M.ナウウェン  (著), 三保 元 (翻訳)

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