生きていくのがつらいと思うとき

2013121401
Photo by taka (PC100)

社会のしくみというものを知るにつれて、この枠組みに、自分をはめ込んでいくこと自体、そもそも大変な困難の連続になっていることに気付いた。なぜ、生きるのが、こんなに辛いのかわからなかったけれど、あるときから、突然、ぼくはこの枠組みから逃れたくなって、もがいているせいだということがわかった。

生きるのが辛くて、死んでしまう人もいるけれど、あれは生きるのが辛いのではなく、今の社会の枠組みにはまり切れなくてリタイヤしてしまうのではないか。生きること自体は、自動的に行われるものだから、肉体的な苦痛等が継続している場合は別として、辛いということはないはずだ。すべての自殺者がそうだとは言わないけれど、社会が違った形で存在していたら、笑顔のまま一生を過ごせた人も、決して少なくないと思う。ぼくの知人には、自殺者や自殺未遂者が何人かいるので、それは妄想ではない範囲で想像出来る。そして今、ぼく自身も自殺しようとは思わないけれど、その辛さで泣きたくなるときがある。

社会の枠組みというのは、空気と同じで、気付くとそこにあるもので、そこにいる人は、そのまま枠組みの中に吸収された状態になっている。例えば日本に生まれたら、生まれると同時に、日本という枠組みに入った状態になっているということだ。だから、一生、枠組みの中にいることを気付かずに終える人もいるかもしれない。

空気と違うところは、枠組みは人間が作ったものであるということである。自然に存在しているように思えるけれど、誰かが作った枠組みの中に、ぼくらは入っている。言い換えれば、ぼくらは、ぼくらを一定の範囲内に収めておくための枠組みに閉じ込められているとも言える。

だから、枠組みそのものは、自由とは対極にあるものだ。

だが、枠組み自体は、悪というものではない。自由を損なうから愛も損なうのだとは思うけれど、ある一定の枠組みを最低限の秩序とすることで、ぼくらは安心して日々を生活することも出来ている。魂のレベルでは、魂を傷付けることも命を奪うことも出来ないので、どんなときでも安心して生活していいのだけれど、3次元的には、どんなときでも安全というわけにはいかない。気を抜くと殺されてしまう可能性もあるのだから。そんなわけで、枠組みは、全人類に支持され、重宝されてきた。だが、重宝され過ぎて、或いは、その力を乱用される形で、今や、枠組みは、いびつな形で、存在しているように思える。悪用されているとも言える。しかも乱用したり悪用したりしている本人たちは、それが当然の権利のように感じているのだから始末が悪い。

そんないびつさを感じるたびに、或いは枠組みを過度に管理したり自分に都合のいいようにしている人たちの存在を感じるたびに、ぼくはストレスを感じ、枠組みから脱出したいと考え、もがく。だから、辛かったのだ。

人間の中に魂があり、魂が愛だとすれば、魂以外の部分はエゴだ。エゴは、愛に仕えているとき、とても有効な働きをする。愛を高めるために、一生懸命働く。だが、エゴが主人になってしまうと、魂は委縮してしまう。そして枠組みを作ったのは、エゴだ。なぜなら、エゴを作ったのは人間であり、しかも自由を損なうものを愛が作るわけがないから。エゴはエゴの欲求を満たすため、枠組みをつくり、自分の身の安全を確保する。同時に、他人の行動も制限することで、さらなる安全の確保が可能になる。

こうして出来た枠組みを、さらに権力を得た人間のエゴは、自分以外の人間を管理するために使い始める。この枠組み社会では、枠組みを手にしたものは、世界を手にしたことになるからだ。他人を管理することで、エゴは自分の身を安泰に感じる。世界を手にしたことで、エゴは究極のエクスタシーさえ感じるかもしれない。(但し、それは一瞬より少し長いぐらいの時間だけだと思うけど。)

エゴは愛と違って永遠の存在ではないから、生き伸びるために必死である。これは地球上に生きる人間が、未だに欲を捨てられず、戦争を続けてまで、自分たちの利害を守ろうとする理由なのかもしれない。だとしたら、なんと哀しいことか。

争いや貧困を失くすには、愛があればいい。
これは間違いない。

愛は地球を救えるか?
YES!もちろん、救える。

でも、未だかつて、地球が救われたことがあっただろうか?
愛では、救えないのではないのか?

ぼくらは、本当の愛を、知らないのである。
だから、地球を救えないでいる。

正確に言えば、本当の愛を忘れてしまっているのだ。

ぼくらは神の子、神の材料で出来ている。
神は愛だから、ぼくらも愛。

ところが、ぼくらは、
ぼくら自身のことを忘れてしまっている。
それを思い出すために、生まれて来た。

本当の愛を思い出せさえすれば、
ぼくらは地球どころか全宇宙を救える。

愛は地球を救えるか?
YES!もちろん、救える。
その気になれば宇宙だって!

言葉遊びをしているわけではなく、思い付きで話しているわけでもない。ぼくがスピリチュアルに気付きを得て、10年経って、いろいろと見方も変化したけれど、ずっと変わらないでいる気持ちがここの部分だ。やはり、極めるは愛であり、自由である。

社会という枠組みは、人間が作ったものだ。どこかの誰かが作ったものであり、しかも枠組み自体は、何らかの方法で維持しないとすぐに崩壊してしまうものだから、やはりどこかの誰かが維持管理している。壊れてしまうものに真理なんてないのだから、そんなところからも枠組みというものがエゴが作った幻想でしかないことがわかるのだけれど、かといって、誰かが枠組みを維持している以上、ぼくらはそこから抜け出ることが出来ない。

ぼくら実体が、幻想である枠組みから抜け出れないなんて、笑うしかないぐらい哀しいことだ。

ただ、そこで気付けることもある。枠組みを作るのが人間なのだから、ぼくらも枠組みの維持管理に参加出来るということだ。今では、どんどん、簡単に参加出来ないようになって来ているけれど(これは陰謀と言ってもいいぐらい酷い状態になっている)参加出来ないことはない。参加出来るのだ。

その方法は、ひとつではない。人それぞれでいい。いろんな方法で参加したらいいと思う。方法やルールや主義主張で枠組みを作るための枠組みを作ってしまうのが人間だけど、それはキリのないことなので、個々の方法を尊重するところから始めたい。でも、そもそも、もっとも大切なことは、ぼくらは枠組みの中に閉じ込められている存在だという事実に気付くことである。まずは、このことに気付けたらいい。

それから、出来るだけ多くの人が枠組みの再構築に参加して、ぼくらが愛を主体に生きられるよう、ぼくらの愛が制限を受けないよう、ぼくらの愛が自由であるよう、愛がエゴを仕えた形で生きられるよう、そんな枠組みに作り変えていこうではないか。

でも、そこまで辿り着いたら、きっと、ぼくらに枠組みなんて、いらないということに気付くのだと思う。
ああ、そんな世界がいつか来るのだろうか。そう思ったら、めちゃめちゃ泣きたくなって来た。


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