無気力な世界からこんにちは

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Photo by taka (7D)

なんだか無気力で、なんにもしたくない気持ちでいっぱいの今日この頃。ブログの更新も10日間ほど空いてしまった。何も書けないのだから、もう閉めてしまおうかな、と考えたりもした。そんな風に、このままだとどうにもならんなあ、と思いながら、自分に対して、諦めかけていたら、どよんどよんした、やる気のない心のどこかの一角で、ぴょんぴょん跳ねている自分がいることに気付いた。

なんだ、こいつ、ぴょんぴょん跳ねているぞ?と思いながら、静かにその様子を眺めていると、(しまった!見られたぞ!)みたいな感じで、どこかに行ってしまった。消えていなくなってしまった。それでも、確かに、そこにいたぼくは、結構楽しそうに、ぴょんぴょん跳ねていたのである。

こんな無気力な状態に陥っても、あれもしたい、これもしたい、という気持ちは、まだ残っているのかもしれない。もしも、そうだとしたら、それらの気持ちは、以前よりも、その幅は広がり、質も向上したように思う。それは確かな気持ちとして、感じることが出来る。しかし、一点、気持ちの強さ、というところで圧倒的に足りないのかもしれない。前に進もうとする気持ちは萎え、衰えている。気力が薄れているのか、何があってもしたいのだ、というようなひたむきさが欠けている。

なぜ、このような状態になってしまったのだろう。

何をしても無駄なのだ、と思っているふしがある。ぼくひとりの力ではどうにもならないのだ、というような打ちひしがれたようなことなのかもしれない。世間どころか、自分ひとりのことさえ、まともに出来ていないのだ、というような反省もある。そしてなにより、最近では、ぼくがいなくなっても、誰も困らないのだなあ、と思う気持ちも大きくなってきた。

いじけたような心で、「どうせ、おれなんかいなくても!」と叫びを上げているわけではない。静かに落ち着いたところで考える中で、ぼくの存在が、世間にとっては、ほとんど無意味であることを感じたのだ。この世界の側からすれば、ぼくなど、いてもいなくても、どっちでもいいのである。

ぼくの存在に対して、意味を持つのは、ぼくの中にある世界でしかない。ぼくは、ぼくのために、この世界で生きているのだ。この世界をぼくの中に投影して、そこで経験を重ねているだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。ぼくがいる限り、ぼくの中にある世界は機能し、ぼくがいなくなったところで、消滅する。ただ、それだけのことだ。

だから、ぼく自身が弱まれば、ぼくの世界も弱くなる。弱い中で生きていれば、気力も弱まり、このようになるだけの話だ。逆の見方をすれば、ぼく自身が強まれば、ぼくの世界も強くなり、気力は漲り、前に進もうとする。いかようにも出来る、自分自身の気持ちひとつで。そういった自由を、ぼくらの宇宙は、与えてくれた。そういった意味では、この世界は、奇跡であり、完璧である。

このようなことを思い始めたのは、いつの日か、ある日、あるとき、何かの拍子で、人間関係の難しさを感じ、それまで考えもしなかったことに対して、恐れを抱き始めたところからかもしれない。その後、次第に、人間に対して苦手意識が生まれ、それはなにかに付けて成長し、今では、なるべく人と関わらないようにしているぼくがいる。こんなぼくは、社会で生きていくには、かなり面倒な奴だ、と思いながら、自分で自分を持て余している。

ぼくの考えでは、人が人と、コミュニケーションするのは、無理なのだ。
性能的なところで、人と人は、コミュニケーション出来るようには創られていない。

なぜなら、人はエゴで出来ているからだ。人からエゴの部分を取ったら、もう人そのものではなくなる。何が残るかと言えば、それは魂そのものだ。

エゴは、他のエゴを理解出来ない。エゴが理解出来るのは、自分のことだけである。他人のことは単なる情報として受け取り、自分の都合(過去の経験から集積したフィルター)で情報を加工した後、受け取って理解する。それはもはや他人の気持ちとはまったく別なものである。

だから、人と人はコミュニケーション出来ないのだ。
そして、コミュニケーション出来るのは、魂同士なのである、と考えている。

※人と人がコミュニケーション出来ないのは、別な視点において大変深い意味がある、ということもわかってはいる。

(追記)
コミュニケーションのパターンにおける、もうひとつの可能性として、身体と身体のコミュニケーションが考えられる。これはもちろん、ダイレクトにコミュニケーション出来る。宇宙は、そのようにぼくらを創った。

それらの形は、例えば、ハグや性行為という形で、ぼくらは経験する。特に性行為というものは、身体のコミュニケーションのもっとも濃密なものなのだろう。

ぼくは、エゴから切り離して性行為をすることが出来たら、それは魂でコミュニケーションするためのもっとも近道なのかもしれない、と考えている。一滴でも性欲や好奇心が混じっていたら、うまくいかないかもしれないが、純粋な部分で経験出来たら、そこには宇宙の真理(もしくは神さま、あるいは愛そのもの)がみえるのではないか。

だが、ぼくは残念なことに、それを試せたことはない。
そもそも、誰と試すべきことなのか、ぜんぜんわからない。

今のぼくは、スピリチュアルなところから、離れているのかもしれない。
あえて、自ら離れて、遠巻きに見ている状態のような気もする。

誰にでも優しくなんて出来ないし、嫌だなと思う人がいるところからは離れていたい。
いくら無気力だからといっても居心地の悪い場所にはいたくない。
心地好い時空に心身をおいて、静かにしていたい。

スピリチュアルの原理は忘れてはいないつもりだけれど、スピリチュアルかどうかを考えて行動の選択をしたくない。ぼくが生きてく上で、マニュアルはいらない。たとえ、それが神さまの言葉で出来ていたとしても、それに従うつもりはない。そんなものは必要ない。

ぼくは、さきほどこのブログに書いた、人と人はコミュニケーション出来ない、という部分について、本当は間違っていて、条件が整えば、人と人でも(エゴとエゴでも)コミュニケーション出来るのだ、ということを実感したいのかもしれない。今は、そういう相手を探せなくて、がっくりとしてうなだれて元気を失くしている状態なのかもしれない。その結果が、この無気力なおっさんをつくりだしているのかもしれない。

そのことについて、昨日の朝、ちょっと面白い経験をした。
それは、近いうちにここに書いてみたいと思っている。


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