スピリチュアルな気付き

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Photo by taka (X2)

スピリチュアルや精神世界に興味を持つ人や、実践している人を、現実逃避のようなイメージで捉えている人に出会うことがある。しかしそれは、誤解であると、ぼくは思う。なぜなら、ぼくは、スピリチュアルというものを知らなかったときの方が、今に比べたら、ずっと楽に生きていた。今のぼくからすれば、スピリチュアルなことをすっかりと忘れて(棚の上にあげて)、昔のように、3次元のことだけ考えて生きる方が、よっぽど現実逃避になるような気がする。

とはいえ、3次元世界を生きていくだけでも、しんどいものだ。それを現実逃避と言ってしまうと、それはそれで哀しい。昨日書いたブログのように、ぼくはぼくで、心のどこかで泣きながら、なんとか生きている。でも、それは、もはや、3次元のみで生きていられないことが理由になっている。3次元ではないぼくが、3次元のぼくと折り合いを付けながら歩むときのギャップが哀しみを増幅しているように思う。

3次元世界だけで生きていた頃のぼくは、エゴこそが自分だと思っていたから、エゴのパワーを高めて荒波を乗り切ることこそが、人生でもっとも必要で大切なことだと思っていた。ぼくは、ぼくがぼくであることを強いエゴにより宣言し、タフに勝利していくことが人生の目的だと思っていた。

更にあの頃、自分が、正義の味方、弱い者の味方だと思い込んでいた部分もあった。仕事上でも、体制側、管理側の中に、現場や仕事の目的よりも、利権や対面等を優先するような人がいると、迷いなく攻撃していた。引きずり落として這い上がろうとさえしていた。彼らから言わせれば、テロリストみたいなものである。しかし、正義とか弱い者なんてものは、自分のモノサシで決めたことでしかないのだから、その時点で自分よがりであり、他人の気持ちを考えられない、わがままで嫌な男だったのかもしれない。あの人たちに、もう会うことはないのかもしれないけれど、ぼくは、今、心の中で、こっそりと申し訳ない気持ちでいる。たとえ、その場が、あのときのぼくにとって、とても理不尽で苦い体験でいっぱいだったとしても。

もう、あの頃のように、エゴむき出しで生きることは出来ない。それはもう出来ないのである。しようと思って出来ることではない。今までは普通と思っていたことが、ある日、どこかで、何かが違う、と気付いてしまったから。

気付きを得てしまうと、エゴむき出しで生きることに対して、生理的に嫌悪感を感じるようになってしまった。今のぼくが、当時のぼくを見たら、きっと吐き気をもよおすと思う。

気付きというのは、理解とは違う。知識とも違う。要するに、頭でわかるのとは違う。気付きを得た途端、一瞬で変容している。心身すべてでわかるものだ。そして、もう、そこから一瞬前には戻れない。それが気付きである。

気付きというのは、恋に似ている。恋は理解でするものではない。知識で得るものでもない。恋は、いつのまにか、しているものである。恋に堕ちるとはよくいったものだ。堕ちたら、もう元の場所には戻ることは出来ない。そして、恋をする前の自分と、恋をした自分は、明らかに違う。大袈裟にいうと、何もかも違っている。見える景色や聴こえる音まで違っているかもしれない。それは、何かを理解して得られるものではなく、恋をしたという状態の遷移で起きるものだ。それは、気付きとよく似ている。恋してしまったら、恋する前の状態には戻れない。同様に、気付きを得てしまったら、気付きを得る前の状態には戻れない。

だから、もうスピリチュアルな気付きを得てしまったら、3次元の世界だけの自分には戻ることが出来ない。エゴだけでバリバリぶっとばす人生には、もう戻ることは出来ないのだ。

ところが、スピリチュアルな世界だけの自分でいるわけにもいかない。それは、ここが3次元の世界であり、3次元な部分から切り離すことが出来ない、という理由もあるけれど、何よりも、スピリチュアルは、3次元で生きるための護りのようなものであるからだ。自分を護るのがスピリチュアルであるならば、自分はスピリチュアルそのものにはなれない。家に住む人間に例えたら、家がスピリチュアルで人間が自分である。いくら家がよいからと言っても、自分が家になってしまうことは出来ない。また、仮に家になれたとしたら、そこには誰が住むというのだ。いや、誰も住めない。なぜなら、その家は、自分専用のものだから。

そんなわけで、3次元+スピリチュアルで生きていかなければならない。「いかなければならない」と書くと、なんだか後ろ向きな感じだけれど、それは昨日書いたブログの通りだ。神との対話の神は、宇宙にしなければならないことなど何もない、とおっしゃっていて、ぼくもそう思うけれど、その辺りはまだ知識としての理解でしかなく、今の時点のぼくでは、まだまだしなければならない、と思いこんでいるものがたくさんある。

それでも、どうにかなるとは思っている。今、なにもかもを不器用に融合してしまっているから、3次元の生活も、スピリチュアルも、重荷のようになってしまっているけれど、このままでいるわけではないと思っている。よりよき方向にいくと思っている。前向きになろうとして、そんなことを言っているわけではなく、それは変化変容進化は、宇宙の仕組みだと思っているから。そして、実際に、気付きを得たりしながら、ぼくも変容を重ねているから。

最初の気付きは、とても純粋なものだった。だが、そこから、知識としての情報をため込んでしまい、スピリチュアルの純粋さが失われたときもあったと思う。それでも、得た情報は、出来るだけ、実生活で試すように心がけてはいた。それはブログを読んでくれた方には、伝わっていたところもあるかもしれない。反面、スピリチュアルとは言えないような不思議な世界にも興味が出てしまい(というかもともとあったんだ)、いろいろ寄り道もした。そして、ついに、去年の秋、ぼくは、第二の気付きのような経験をしたような気がする。ちょうど、地球を救えブログを停止した頃だ。

第二の気付きの後、ブログを書けなくなった。言葉が止まってしまったのだ。それが、今の状態である。止まったとか言いながら、べらべらこうしてしゃべってるではないか、と感じられるかもしれないが、ぼくはそう感じている。以前のような文章は全然書けなくなった。

その原因は、うまく説明出来ないけれど、二元性からの脱却が始まったような気もする。

ぼくらは、何かと何かを比べながら、生きている。それはこの宇宙が、基本的には、そのように出来ているからだ。こことそこは、ここがあるから、そこがあるのであって、ここがなければそこはない。こことそこはもっとも基本的な比較だ。だが、ぼくの中からは、ここもそこも実は同じものだ、というような感覚が生まれつつあり、そうすると、何かを表現するときも、以前のような風には言葉が出て来なくなるのだ。

同様に、必要と不必要の違いもなくなりつつある。必要なものと不必要なものの区別がなくなると、こことそこの比較がないのと同様、思考の成り立ちが変化していく。

それは実生活にも影響している。以前ならしなかったようなことをいつのまにかしていたり、していたことをしなくなっていたり。価値観の再構築が行われているのかもしれない。というか、価値観そのものを手放そうとしている、といった方が良いのかも。

そんな中で、ちょっと笑えるのは、最近、性に対する欲求が増している。春のせいなのか、スピリチュアルの反動なのか、それとも真のスピリチュアルへの通り道にさしかかったのか。いやいや、単に相手がいないから、欲求不満になっているだけかも。

と言っても、もともと風俗で欲求を解消するような性質ではないし、若い頃のように、なんとか相手をみつけて、行為まで辿り着く、というようなことも本質から外れてしまうことはわかっているので、今は、この欲求に対して、偏見なくなるべく純粋な心を通して、ただただ、じっと、みつめるだけである。


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