瞑想 - 祝祭の芸術

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Photo by taka (7D)

先日、部屋の本棚の奥に「瞑想―祝祭の芸術」という本が埋もれているのを見つけた。簡単には取りだせないほど奥まった場所にあったけれど、気になったので、頑張って、取りだしてみた。本の裏には、古本屋の値札がついたまま。そして、その値札から、本を買ったときのことを思い出した。あのとき、著者の名前を見ても、どこの誰かわからなかったけれど、なぜかとても興味をひかれて、中古CDとともに買ってしまったことを。(ぼくは、精神世界系で知らない著者の本は滅多に買わない。)

その本は、バグワン・シュリ・ラジニーシという人の講話をまとめた本だった。半分ぐらい読んだ記憶はあるけれど、その後どうなってしまったのか思い出せない。読むのを忘れて棚にしまってしまったのかも。しかし、この名前、なんか聞いたことのある名前だなあと思ったら、なんとOSHOのことであった。

ぼくは、OSHOとの出会いは、JOY(翻訳山川夫妻)が初めてだと思っていたけれど、なんとこの本は、JOYよりも前に読んでいたのである。だからこちらの方が最初の出会いだ。OSHOがOSHOと名乗っていなかった頃の本なのだろうか。

OSHOの本は、今年になってから随分読んだけれど、いまいち自分の生活に取り入れられないでいた。思想的には影響を受けていると感じるが、実践が伴っていない。

今回発掘された本は、ぼくのOSHOについての歴史の中では、もっとも古いのだが、もっとも新鮮に感じる。なんか、今こそ、読め!という感じで現れたような気もする。パラパラめくると、ぐいぐいと惹きつけられる何かを感じる。ようやく実践のときが来たのかも。

そこで、ぼくは、一昨日、最初のページから読み始めてしまった。

最近のぼくは、(ご存じの通り)支離滅裂でちょっと狂人っぽい。自覚出来ているから、まだいいけれど、このままだと、まずいような気もしていた。

そんなときに現れてくれたOSHOのこの本は、なんとなくぼくを救いに来てくれたような気がする。読むと、なんとなく安心するのだ。

とは言え、一気に読める本でもないので、通勤の電車の中などで、ゆっくりと味わいながら読んでいる。早く読み切ってしまいたい気持ちを忘れて(抑えてではない)、するめを噛むようにして読んでいる。

今日は、くつろぎ方のところを読んだ。いきなりくつろごうと思っても、くつろげるわけがないだろう、みたいなことが書いてあった。以前も読んだことがあるはずだが、全然、覚えていない(笑)

何かに集中すると、その対極が現れる。

例えば、くつろごうとすると緊張が現れ、緊張しようとすると、くつろぎが現れる。
忘れまいとすると、忘れてしまい、忘れてしまおうとすると、忘れられない。

ならば、くつろぐために、これ以上続けたら死んでしまう、というぐらい緊張してみよう、ということが書いてあった(ような気がする。(笑))

ヘミシンクをしていると、おでこや、あごの筋肉を緩めよ、みたいなことを言われる。普段、肩の力を抜くことがあっても、おでこやあごを緩めようとはしない。だから、それは一体どうやればいいのだ?と思うのだけれど、実は、一旦、緊張をしてから、力を抜くとうまくいく、というのがあって、それに似ているように思った。

同様に、いきなり静かな気持ちになって瞑想しても、うまくいくわけがない、と書いてある。静かになれば、今まで抑えていたものが次々と現れて、あなたは狂人になってしまうかもしれないと。だから、まず、最初に狂人になって、それから静かになりなさい、というような瞑想の方法も書いてあった。

ここの部分は、以前、読んだことをぼくは覚えていて、そのときは、ちょっと否定的な気持ちで読んでいたことを覚えているけれど、今のぼくは、まったくその通りだ、と思って読むことが出来た。

ぼくの心の中にも、数え切れないぐらいの悲しみや苦しみや欲望が詰まっている。それは、それらの感情が現れた、その時々で、表に出してはいけない、と思いながら、我慢して抑えて自分の中にしまいこんだ感情たちだ。

これらを解き放つところから始めなければ、いくらわかった顔をして瞑想したところで、どこにも辿り着けない。

そういうことなのだろうと思う。


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