おはようスパンク、さよならスパンク
投稿:2014年8月10日
更新:2016年9月8日
Photo by taka (7D)
先日、新しいレンズを装着した7Dと一緒に近所を散歩したときのこと、あちらこちらでシャッターを切りながら、なんとなくイメージしていたコースを巡り、そろそろ家路に着こうと歩いていたら、燃えないゴミの回収場所に、スパンクがいた。
ゴミ捨て場にいるというのに、スパンクはいつもの通り、満面の笑みである。それを見たぼくは、なんだかとても悲しくなった。以前、テレビで放映されていたときに、密かにスパンクと愛ちゃんのファンだった、ということもあるけれど。
想像するに、小学校の低学年ぐらいの少女が、誰かからプレゼントで貰ったか、それとも自力でお年玉を貯めて買ったかわからないけれど、手に入れたものかもしれない。
いつの日かどこかの家の少女のところに、真新しいスパンクのミシンが来た。スパンクに負けないぐらいの笑顔でニコニコしている少女の様子が浮かぶ。そして、その日からこのときまで、スパンクは笑顔のままだ。
この黄色の箱から、それまでに蓄積されてきたいろんな想いが、少しずつ、こぼれ始めているような気がした。この写真は10日ぐらいのものだから、すでに収拾されて粉々になって、単なる物質に戻っているかもしれない。そのとき、様々な想いは、天に昇り、次の誰かの笑顔のために休息を得ているといいなと思う。
たかがキャラクターの絵が印刷されたものであっても、そのキャラクターに思い入れがあれば、捨てるに忍びないものだと思ってしまう。そう言えば、何年か前、朝の通勤途中、ちょっと汚れてはいるけれど、まだまだ元気そうな笑顔のピカチューがゴミ捨て場でじっと回収を待っている様子を目撃して、悲しくなったこともあった。
そんなぼくの精神構造は、少し異常なのかもしれない。それに、ぼく自身、捨てるに捨てられないものが増えてしまい、モノが溢れ、結構、大変だ。
だから、ぼくはぼくの中でけじめを付けるため、これから捨ててしまわないといけないものを撮影する。撮影することで、お別れの儀式とし、さらに、そこにある魂を記憶し、お別れをする。執着と言われようと何と言われようと、自分の心の中で起きていることは、自分の気の済むまで対応したい、と思う。もちろん、他の誰かの迷惑にならない限り。
東日本大震災で発生した津波は、三陸沿岸の海岸線に並んでいる多くの町や村の、そこにあるすべてを太平洋に丸飲みしてしまった。リアス式海岸の特徴が強く出ている場所は、海岸線から内陸に入ると、すぐに標高が高くなるので、町の半分は無事、というところもあるけれど、陸前高田のように街並みの大部分が平地で出来ている箱庭のような市街地は、過去の面影を追うのも難しいぐらい、すべてが流されてしまった。
どんなに大切にしていたものも、一生手元に置いておきたいと誓っていたものも、あの日の午後の短い時間の中で、何もかもが、お別れの挨拶をする間もなく、無条件に流されてしまったのである。
それを考えたら、自分の手元にあるものに対して、いろんな意味付けをし、執着を増しながら悩んでいることが、なんともみみっちいことにも思える。
でも、ぼくは、モノには魂が宿る、と考えており、であるならば、ぼくのところに来たモノに対しては、出会いと別れの区切りに対して挨拶と感謝を忘れないようにしよう、と考えている。
(追記)
ところでスパンクは今、どうなってんだろ?と思い、ネットで検索したところ、TOKYO MXで放映されていた形跡が(今は放映していないようだがページは残っていた)。
(へえー)と思いながら、他のアニメの放映スケジュールを眺めていたら、なんとダヤンのアニメを発見。1話5分の短いものだけど、そこからリンクして観た第一話の「ダヤン、わちふぃーるどへ」は、とても素晴らしかった。全国(元UHF系)で放映されているようなので、ダヤン好きの人はぜひ!
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