いつか晴れた日に

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Photo by taka (X2)

高校生のときに下宿していた蕎麦屋は、4号線の旧道の交差点の角にあり、今ではそこから4車線の大きな通りが延びているけれど、当時は路地裏に入っていくような細い道だった。その細い道をまっすぐ進むと畑や田んぼがひろがる農道に続いており、休みの日に、ふらふらと出かけると、とてもいい気分になれる散歩道だった。高校時代の三年間は、春夏秋冬、どの季節も散歩していたはずだけど、その風景を思い出すとき、なぜか決まって、ちょうど今ぐらいの春うららな季節が浮ぶ。そして、ちょっと切なさが蘇る。

今日、朝の通勤電車の中で、突然、山下達郎さんの「いつか晴れた日に」という歌を聴きたくなった。もうすぐ仕事場の最寄駅に着いてしまうから、と急いで、それまで聴いていた瞑想用の音楽を止めて、聴いてみた。聴いたら泣きそうになったけど、我慢した。そしたら、涙の代わりに、冒頭で書いた春のもんしろちょうが舞う、農道の田園風景が、心のスクリーンに現れたのである。

「いつか晴れた日に」の詩には、どんな想いが込められているのだろう。情景としてのぼくのイメージは、歌詞は雨降りのようなところから始まるけれど、実は、雨なんか降ってなくて、晴れてはいるが、心の中は、激しい雨が降っているような哀しさでいっぱいで、泣きたくて泣けなくて、みたいな状態で、それでも、いつか、今の晴れ間のように、心まで晴れてほしいな、というような歌なのだろうな、と勝手に解釈をしている。

高校3年になると、ぼくは、一人ではなく、付き合い始めた彼女と散歩するようになっていた。「いつか晴れた日に」の詩にあるように、農道の先にある東北本線の線路沿いの道を、何をするでもなく、ただおしゃべりしながら、歩いた。田園の中にある小さな雑木や野原に溶け込んで、ぼくたちは、ただひとつになった。一緒にいるだけで、何もかも煌めいてみえた。そんな想い出のつぶつぶの集まりが、うららかな春を思い出させるのかもしれない。と同時に、それまで、一人で過ごしていたときの純粋にのどかな気分が、心の中に恋というものが入りこんで来たために、一緒にいるときの無条件の楽しさと、その反動で訪れるさみしさや切なさで、複雑に変容してしまったまま、ぼくの心のどこかに置きっぱなしになっているのかもしれない。置きっぱなしのまま、事あるごとに反応してしまっているのかもしれない。

いつか、どこかの誰かと、その置きっぱなしのものを取りに行けるときが来るのだろうか。それとも、ぼくはこの切なさとともに、人生のゴールを迎えることになるのだろうか。


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