快楽と至福の違い

OSHOの「Joy」という本を読んでいる。

この本は、山川夫妻が訳して2013年に出版したとき、すぐに購入した。
購入したまま、まったく読まない本もあるのだけれど
この本は、確か、購入してすぐに読んだ記憶がある。

今回は、先日、他の本を読んでいたら
「Joy」の引用があり、気になって、再読しているのだ。

紙の本を読むのは久しぶりで
本の重さや紙の質感を味わいながら
OSHOの世界に入り込んだ。

さて、この本では、最初の方で、快楽と至福について述べている。
正確には「快楽」と「幸せ」と「喜び」と「至福」について書かれているけれど
ここでは快楽と至福について、書き留めておきたい。

快楽は、肉体的、生理的なもので、自分の外側に依存する。
外側に対する欲求が満たされることで、快楽が生まれる。

至福は、自分の内側の中のもっとも深い中心に到達していること。
そこにはエゴが存在しないから、自分と思っているものはない。

快楽は、外側に依存するものだから、自分だけではどうにもならない。
快楽が始まるまで待つしかないし、それはいつか終わる。
快楽は、時間の流れの中に現れては消えてしまうものだから
快楽を渇望してしまうと、依存する存在の奴隷になってしまう。
それは、自由ではない、不自由を意味する。

至福は、外側とはまったく関係ない。
自分の内側、普段自分と認識している存在よりももっと奥深くに存在するから
至福を待つ必要はないわけだ。
ただ、そこまで探しにいけば、必ず見つかる。
誰かに依存することもないし、時間の流れとも関係ない。
自分の中に、永遠にあるものだ。

そんなことが書いてある。

至福は、自分の内側にあるというけど
自分の認識よりももっと深いところにあるとしたら
自分が認識することなんて出来ないんじゃないか。

そこまで辿り着いたとしても
認識しようとする自分がいないのだから
誰も認識できない、と思うわけだ。

そんなことを考えているとき、ぼくは、ふと、
子どものころ、何かに夢中になっているときのことを思い出した。

夢中になって、何かをしていたとき
ぼくは、とても満ち足りた気分ですごしていたことを覚えている。
そういうときのぼくは、幸せ、というのとはちょっと違うけど、
喜びは常に感じていた気がする。

嫌なことや悩みがなかったわけではないけれど
夢中になると、そんなことはどうでもよくなった。
ただただ、溢れる心地よさの中で、過ごしていた。

もしかすると、あれが至福なんじゃないだろうか。

大人になるにつれ、至福までのルートには
様々な障害物が崖崩れの山道のように
ごろごろと行く手をふさいでおり
至福への道は、どんどん遠くなる。

仕方ないから、手っ取り早く、
手軽な快楽を追いかけては、何かに依存を深めて
にっちもさっちもいかなくなっているのかも。

さきほど、至福に辿り着いたとき、自分がすでに存在しなければ
至福を認識出来ないではないか、という自問自答を書いたけど
もしも、子どもの頃の体験が至福に近いものだとしたら
答えは、簡単で、自分と思っている存在は、自分じゃない、ってことになる。

それは、もしかすると非二元論ともつながることであり
なんか、興味深いことであるなあ、と思っているところである。


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