北方領土の問題について考えてみる
投稿:2016年12月24日
更新:2016年12月25日
Photo by taka (7D)
神谷町の仕事場の近くにロシア大使館がある。
先日、プーチンさんが来日したとき
大使館付近となる飯倉の交差点から通りに沿って
街宣車と警察があふれていた。
あの近辺では、北方領土の日とか
なにか関連するイベントがあると
街宣車でにぎわうことになる。
結構な音量で
窓が閉まっていても聞こえてくるから
何を言ってるのかもわかる。
返せ~
返せ~
北方領土を返せ~
もしも、東京タワーに遊びにいくときは
そういう日を避けていった方がいい。
街宣車が好きな人は別にして。
大抵の日本人は、北方領土というのは
日本固有の領土であり
ロシアは、日本に返すべきである、と
考えているように思う。
それが日本国政府の見解であり
国民は、そのように教育(洗脳)されて来た、
と思うからだ。
もちろん、これは、ぼくの見立てであり
実際は、違うかもしれない。
(世論というものを知らないので)
でも、少なくても、ぼくは、
ずっとそう思ってきた。
第二次世界大戦の末期。
ソ連は、日ソ中立条約があるのに
野球で言えば9回裏、
3-100ぐらいで負けている日本に対して
開戦し攻めて来た、と聞けば
戦争のどさくさに紛れて
敗戦寸前の弱った日本から
領土を奪い去った酷い国、と思って当然である。
だが、ちょっと調べてみると
そんな単純ではないことがわかる。
ソ連の参戦にも、理由があるようだ。
武器の調達をしてくれたアメリカに頼まれて
断り切れなかったとか
日露戦争の反動だとか
まあ、どこまでが真実かわからないけれど。
そして、世界的に見ると
戦後に行われた東京裁判で
ソ連の参戦は正しいと認定されており
日本の主張は、ほとんど無視されている。
世界の歴史は、戦勝国側が書くものだから
負けた国の主張など認められないものである。
第二次世界大戦において
日本は、欧米の植民地支配から
アジアを取り戻したのだ、という話もあり
そういう効果もあったのだろうなとは思うけど
トータルで考えたときに
戦争によって行われたあらゆることのなかで
純粋に正当化出来るものはひとつもないと思ってる。
そもそも、北方領土に住んでいた人たちは
その時代時代で
どちらかの国に属していたかもしれないけれど
もともとは、日本でもソ連でもない人たちだ。
領土の奪い合いに巻き込まれて
大変な迷惑を被った人たちである。
だいたいにして、
日本固有の領土という表現がおかしい。
どこかの国の固有の領土なんて
どこにも存在しない。
ちょっと考えればわかることだけど
大地よりも先に出来た国なんてないのだから。
ぼくがここで書きたいことは
北方領土を返してほしい、ということでも
勝てば官軍の話をしたいわけでもない。
ぼくらが、北方領土を返せ、という前に
考えなければいけないことが
たくさんあるのではないか、ということである。
国家間の争いに領土問題は付きものだけど
ぼくらは、国家ではない。
ぼくらは、人間だ。
人間として、北方領土というものが
どういう歴史を経て今に至るのか
そして、今の北方領土を考えたとき
どうすれば人間全体の幸福度が上がるのか
さらに言えば
北方領土の問題に対峙したとき
ぼくらはなにを学べるのか。
そのようなことがらについて
国家レベルで考えた結果を
ぼくらは、まるで自分が考えた結果のように
自分の意見として保持したり話したりするけれど
その考えは、受け売りでしかない。
そもそも、国家の立場で考えたことは
人間としてあるべき姿と
かけ離れてしまっている可能性がある。
その証拠に
国家が恒久的な平和をもたらしたことなど
歴史上、一度もないからだ。
戦争で得た平和が長持ちしないように。
人間としてどうありたいかの総和が
国家として存在出来ればいいのだけど
国家と言うのは、大抵の場合
思慮が浅く、他人の幸せなど考えることが出来ない
一部の声のでかい人たちの憩いの場になっているに過ぎない。
北方領土について、ぼくらが思慮すべきは
返してほしい、ということよりも
まずは、戦争なんてするもんじゃない、ということではないか。
もともと、戦争なんかしなければ
北方領土問題なんて、なかったのだ。
戦争がなければ時代が変わっていただろうから
日本の領土ではなかったかもしれないけれど
少なくても、そこに住んでいた人たちが
強制的に、生活を奪われるようなことはなかったはず。
もちろん、これは、日本だけで出来ることではない。
攻めてくる国があれば、結局戦うことになってしまうので。
そんなの無理だよ、という声を聞こえてくるが
北方領土の問題は、結局のところ、そこに行きつく。
でも、本当に無理なのか?
ぼくら人類には、そんな力がないのか?
今、日本は、また戦争しちゃうんじゃないか
というような雰囲気が漂い始めてる。
自分の国の正当性を主張するためなら
たとえ武力を使ってでも、訴え続けるのが
正義である、というような考えをする人が増えたのだろうか。
だが、国の正当性なんて、まやかしみたいなものである。
なぜなら、その国にとって正しいことでも
他の国にとっては極悪であることなんて、ざらにあるからだ。
正しいか正しくないか、という理屈だけで
戦争をしていたら、戦争は永遠になくならない。
人間は、いつまでたっても、殺し合いを続けるだろう。
生身の人間同士がけんかするのなら
自分たちの責任でやればいいのだから
やりたければとことんやればいい。
(もちろん、当事者同士でね。)
だが、国家間でするとなると
関わりたくない、と思う人間まで
強制的に、巻き込むように仕向けられる。
これは、人間として最悪のことだ。
ぼくは、他人をコントロールして
自分の利害のためだけに使う人間を軽蔑する。
真実はわからないけれど
西暦700年前後、大和朝廷は蝦夷征討と呼ばれる
領土の拡大を行ったとされる。
今の東北から北海道にかけて住んでいた
ネイティブジャパニーズな人たちの暮らしを
自分たちの支配下に置こうと企んだのである。
だから、岩手にルーツをもつぼくとしては
ヤマト、という言葉を聞くと、ちょっと落ち着かない。
ぼくのなかには、ヤマトの集合体に含めてほしくないと
思ってる部分がある。
いや、もしかすると、
ぼくはもともとヤマト側の人間だったかもしれない。
だとしても、やはり、ある種の、許せないものがある。
(というか、ますますもって嫌悪感を抱く。)
北海道、東北の人たちは
ヤマトのおかげで、ずいぶん苦労しているのではないか。
昔は、平和に暮らしていたところを侵略され
今は、他人の消費する電気のために作った
原発が爆発し、人が住めなくなったり
311のために用意された復興予算を
ぜんぜん違うところに流用されたり
自衛隊の駆けつけなんとかのために
東北の自衛隊が使われたり。
同様に、沖縄の人たちも
大変に苦労をしているように感じる。
大自然の山や木や海が
どんどん破壊されていく。
それ以上に、そこに住んでいる人たちの心は
破壊されているかもしれない。
他にも方法はたくさんあると思うけれど
わざわざ沖縄に犠牲を強いらせてるよう見える。
沖縄の県知事の権力を無力化する、等ということを
日本国政府が口にしているという。
これは、間違った報道であると思いたいが
本当だとしたら、とうてい信じられないことだ。
いつの時代でも、どこの国でも
国家のやることに対して、依存したらだめである。
国民の依存が始まったとたん
好き勝手なことをするのが国家である。
今、日本では、国民が弱体化している。
それは、政治が悪い、という人たちもいるけれど
それはちょっと違うと思う。
国家は、わざと国民を弱らせているのではないか。
弱らせれば、弱らせるほどに
国民は、国家に依存しなければ、生きられなくなる。
さらに、国民が弱り始めたら
今度は、政府の要人たちを
常識の知らないポリシーのないものたちに変えていく。
大臣の椅子を与えただけで
舞い上がるものようであれば、最適な人材である。
ここまで来ればやりたい放題だ。
もちろん、そんなことは、ぼくの妄想かもしれない。
だが、ぼくの妄想などに関係なく
国民は、もっと自分がどう在るべきか
はっきりと自覚することが大切である。
国家には、依存しない。
国家に依存させるぐらいでないとだめである。
話がどんどんずれてしまったけれど
国家の言うことをただ真に受けて
北方領土を返せ!と言ってるうちは
権力者たちの思うつぼである、ということを
今日は、書きたかったのである。
最後に
メリークリスマス
地球上のすべての人たちに
覚醒の光を。
人気ブログランキング ナチュラルライフ