春を春と認識する前の春をみつめる
投稿:2016年4月1日
更新:2016年4月1日
Photo by taka (7D)
3月中は、寒い日もあるから
穏やかな暖かい空気に春っぽいさを感じたとしても
いやいや、まだまだ油断ならぬ、と気を引き締めたりする。
だが、こうして4月になってしまうと、
どんなに寒く感じても、春は春なのだ、
と思っている自分がいる。
それは、実際に「4月」というカレンダー的なものかもしれないし
桜が咲いたのだから、もう後戻り出来まい、
という感覚があるのかもしれない。
4月になろうが、桜が咲こうが
雪が降って、冬に逆戻り、という可能性もあるのだが
自分の中で、そういうことになっているらしい。
これは思い込みの一種でしかない。
過去の記憶で照らし合わせて認識を繰り返し、
現在を見ている、ということだと思う。
そして、そんな風に見ているのは、
ぼくのエゴ(自我)の部分である。
エゴは、思い込みだけで出来ている。
言い方を変えると、過去だけで出来ている。
思い込みというものは、過去の積み重ねだからだ。
ぼくらは、過去という光で
現在を照らして、ようやく何が起こってるのか認識する。
だが、過去の光で照らされたものは
決して、そのままの形を現すことがない。
過去の姿がぼんやりと浮かび上がるだけだ。
過去の光も、未来の光も
それらで照らしてしまっては、
現在を、まっすぐ観ることは出来ない。
桜を桜と認識してからでは
本当の桜の姿をみることが出来ないのだ。
春を春と認識してからでは
本当の春の姿をみることが出来ないのだ。
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