夏休みの後で

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Photo by taka (7D)

先週の水曜日から日曜日まで、夏休みを取った。たった5日間の休みだったし、旅行などのような特別なことをしたわけではないが、いつもよりも長く充実した時間を過ごせたような気がする。

ばたばたと忙しくしたのは初日の午前中だけで、あとは本当に何の予定も入れず、ゆっくりゆったりと過ごした。いろいろと考えたいことも積もって来ていたので、タイミング的にもちょうどよかったのである。

考えても、結論が出たり、急にまとまったりするわけでもないのだが、ぼくは、考えること自体、ひとつの修行になると思っている。或いは、修行のつもりで考えたりする。

ただ悩みながら考えるのではなく、頭をからっぽにして考えるのである。ちょっと瞑想に似ている。だから、邪心を寄せ付けず、ピュアな状態で考えることが出来るはずなのだが、なかなかその境地に辿り着いて、かつ境地を維持したまま、考えを続けるのは、今のぼくには至難の業である。(ほとんど出来ない。)それでも、それはとてもよき修行のような気がして、たまに時間のあるときに試みたりする。

失敗すると暗いネチネチした自問自答になってしまったりするけれど、うまく出来ると、清々しい時空の中でなにやら爽やかに(何者かとの)会話が進んでいく。

今回、それほど深いところまで考えが及んだかどうかわからないけれど、考えの最初から最後まで、ずっと「自分が親しくしている人には、自分は特別な存在でありたい。」というイメージが離れなかった。

このイメージを発しているのは間違いなく、ぼくの中のエゴの部分である。だが、直接的に悪さをするわけではなく。そういう想いだけで出来ている生命体がいる、と考えればいいのかもしれない。

以下は例である。ぼくがすべてそう思っているわけではない。

自分は、家族、配偶者や子供たちにとって、特別な存在でありたい。
自分は、会社や同僚、上司や部下にとって、特別な存在でありたい。
自分は、恋人や愛人、或いは親友にとって、特別な存在でありたい。

誰でも、そのような感情はあるのだと思う。強いか弱いかの違いはあるにしても。

但し、その感情は、ときおり冷静な考えの妨げになる。特別な存在でありたいと思っていても、相手のあることだから、特別な存在に成りえない(相手が自分を特別な存在だと思わない)ことだってあり、その場合は、大きな葛藤や失望を生んでしまうからだ。

今のぼくは、どうも過去のトラウマがどんどん噴出しているのか、相手に特別な存在として認められたい、という気持ちが強くなっているように思う。だから、外の世界とギクシャクしてしまっているような気がする。これはあまりよいことではない。卑屈さがにじみ出て、まことにみっともない。

このエゴの部分を、ぼくはなんとか浄化してしまいたい、と思っている。

ぼくは、誰にとっても、特別な存在でもなんでもない、ただの人である。透明な存在なのである。それでいいのである。それ以上でもそれ以下でもないのである。そこからがスタートである。


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