ねこねこヒストリー

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Photo by taka (7D)

うちの猫は、風が好きである。窓を開けて風を入れると、例え、どこか別の部屋で寝ていたとしても、風の気配を感知して、トコトコとやって来る。

ベランダの入り口を開ければ、写真のように、部屋の窓を開ければ、窓枠にぴょんと飛び乗って、風に吹かれながら外を眺めている。直接、彼女の口から「風が好きなのよ。」という言葉を聞いたわけではないけれど、明らかに、気持ち良さそうに風を堪能している。猫は風が苦手だ、という話を聞いたことがあるが、もしも、一般的にその通りだとすれば、彼女は例外なのかもしれない。強めの風のときでも、彼女はいつもと同じように(或いは、サーファーがより大きな波に挑む楽しさを体現しているかのように)、その時を楽しんでいるように見える。

先代の猫はどうだっただろうと記憶を辿ってみると、風に吹かれていた記憶はないように思う。彼女が好きな場所は、洗面台の鏡の前だった。彼女は飽きもせず、一日中鏡に映った自分の姿を眺めていた。明らかにフェミニストだったのである。彼女は自分の美しさを知っていたのだ(笑)

ぼくが一緒に暮らした猫は、たったの二匹だが、このように、性格の違いをはっきりと感じることが出来た。

この違いは、何か理由があるのだろうか。いくつか理由は思い浮かぶけれど、なんと言っても、先代の猫と今の猫の違いで、真っ先に浮かぶのは、彼女たちのニャン生(人生ね)の中で、野良猫として生きたことがあるかないか、ということである。

先代の猫は、野良の経験がない。産まれたときから飼い猫状態であり、人の手から離れたことがなかった。人生の最初から最後まで、ほとんど家の中か庭の周辺で、飢えることなく、安全に暮らしたのである。

今の猫は、仔猫のとき、野良でいるところを、ボランティアで地域の猫を守っている方に保護されたそうだ。産まれたときに捨てられたのか、そもそも野良猫が産んだ子だったのかわからないけれど、保護されるときには、警戒心が強く、なかなか捕まえられなくて、苦労したらしい。

そのせいか、今もかなり警戒心が強い。初めてうちに来た時は、3日間ぐらい姿を現さず、本棚の陰などに入ったまま、出て来なかった。ぼくはそのまま死んでしまい、死体になった彼女を発見することになるのではないかと、とても心配だったことを覚えている。今では、そこまで無防備でいいの?というぐらい、ひっくり返って腹を天井に向けた格好で寝ていたりするが、玄関口の呼び鈴の音がした途端、飛び起きて、和室の押し入れに向かって思い切り避難する。(うまい具合に隠れる場所がある。)そして、しばらく出て来ない。何時間も出て来ないときもある。かなりのビビりである。

だから、外から聴こえる音や、吹いて来る風なども苦手なのかなと思ったりするけれど、全然、平気なのである。これは勝手な想像だけど、風が好きなのは、野良時代、まだ仔猫だったとき、自然の中で、そよ風に吹かれて遊んだ記憶があるからかもしれないな、と思う。そのときは、きっと、母猫や兄弟たちと一緒だったのだろう。

ほんの短い時間だったかもしれないけれど、彼女は、自分の母親や兄弟と暮らしたのだ。仔猫の彼女が、小さな命を授かり、この世に産まれ、よちよち歩きでママのおっぱいにすがりついたり、兄弟たちとじゃれ合ったりしながら過ごす時間があったのだ。そのとき、いつも彼女のまわりには、まるで彼女を包んで守ってくれるような、心地好い風が吹いていたのだ。風に包まれて、愛情に包まれて。それは人間でなくても、本能が覚えているとても大切な愛の記憶である。(とぼくは信じている。)

その後、どういう経緯かわからない部分は多いけれど、彼女に関わった人間たちの勝手な事情が原因になり、流れ流れて、ぼくのところまで来た。

そんな彼女の生い立ちを想像すると、ぼくは、とても切ない気持ちになる。たまに寂しそうに鳴くとき、お母さんに会いたいのかな、とか思ったりもする。寝言を言いながら、身体が動いているのを見ていると、仔猫の頃に兄弟や友達と遊んだことを思い出すような夢をみているのかなと思ったりする。

今、彼女は、幸せだろうか。幸せな気分で毎日を過ごしてくれているだろうか。

人間たちのわがままな振舞いによって引き起こされた数奇な運命について、ちゃんと埋め合わせ出来ているだろうか。そればかりではなく、彼女が、ぼくのところに来てくれたおかげで得たたくさんのいろいろなことに対して、恩返し出来ているだろうか。他に、ぼくが出来ることはないだろうか。

ぼくが彼女と、向かい合って、おしゃべりするとき、半分はいつもそんなことを考え、問うている。そんなとき、彼女は、ちゃんと両手を合わせ、背筋を伸ばして、まっすぐな眼で、ぼくを見る。そして、何か通じ合ったと感じるとき、目を細めて、ぼくを見詰め直す。

さきほど、スカパーのチャンネルを回していたら、猫にまつわる名場面が出て来た。

スタートレックの映画版「ジェネレーションズ」で、攻撃を受けて、やむ負えず胴体着陸したエンタープライズ号の中、瓦礫の山となった貨物室の中で、アンドロイドのデータ少佐とカウンセラーのディアナ・トロイが、生存者の捜索を続けていた。そのとき、残骸の中で、データは、データの飼い猫であるスポットを発見して、抱きしめ、それから、思わず涙するのである。

このシーンは、いつ観ても泣けるし、今回も思わず、うっと来たのだが、残骸の中で猫を発見するという場面が、この映画の封切り時には、まだ未来の出来事であった311の震災とも重なるなあと思い、ちょっと複雑な気持ちにもなってしまった。

ぼくと生涯をともにするうちの猫、先代の猫も、ワープ航法で光速を超えて移動出来る宇宙船に乗って銀河を旅し、その生涯を終えるスポットも、それぞれがそれぞれの歴史、生涯を持っている。同様に、世界中にはたくさんの猫たちが生きている。どの猫にも生涯を虐げられることなく、幸せな一生を過ごしてもらいたい。

捕獲されて殺されてしまう野良猫たち、東日本大震災やその他の災害で被災した猫たち、戦争に巻き込まれた猫たち、きっと幸せとは言えない人生を送る猫たちは少なくない。人間は自分たちのことばかり考えて、まるで地球が自分たちだけのもののように扱っているけれど、本当は神さまから、地球に生きるすべての命を守るという大切な役目のために、地球に存在を与えられたのだ、と、ぼくは思っている。そんな役目があるからこそ、人間だけが、飛び抜けた知能を授けられたのだ、とも思っている。そのことを、ほとんどの人たちは忘れてしまっているけれど。

地球のために、ぼくにも何か出来ることを、と考えたとき、もしも、何か出来るとしたら、それは、例えば、猫たちについての何かなのかもしれない、と、今、ふと、考えた。


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