文章が書けなくなった理由を考えてみた

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Photo by taka (7D)

先日、ブログを書けなくなった、と書いた。
書いた後、ぼんやりながらも、その理由を考えていた。
あれから一週間、更新は出来なかったけれど、なんとなく、なぜ書けない状態なのか、わかったような気がする。

ぼくの文章は、過去の経験を材料にしていることが多い。書かれている内容が、今、起こっていることだとしても、過去の記憶を土台にし、バックグランドにして、または脚色に使って、文章を構成にすることが多いのである。意識的にそうしようとしているわけではなく、自然とそのように書いてしまうのである。思えば、初めてネット上に文章をアップした頃から、20年近く、このスタイルはずっと変わっていないように思う。

しかし、最近のぼくは(去年ぐらいから)、「今ここ」を実践するために、過去の記憶に惑わされず、そっくりそのまま、ありのままを観るように、心掛けている。ついつい長年生きて来たように生きてしまうので、常に心掛けている、とは言えないけれど、そのことを思い出しているときは、出来るだけそのように意識的に心掛けて行動してきた。人間は、意識しない限り、過去の記憶を現在に投影して、物事を判断する生き物であるが、それではありのまま観ていることにはならない。

過去の記憶を現在に投影して、と書くと何だか難しい表現っぽいけれど、言い方を変えれば、思い込みで見てしまう生き物である、ということだ。「思い込み」というものの実体は、ひとつひとつをバラして分析していくと、過去の記憶だけで構成されているものであり、現在の情報とは全く無関係である。しかし、人間は、今見えているありのままの情報よりも、過去の記憶で得た情報の方を優先して、判断してしまうということである。これは一言で言えば、偏見である。

偏見は、いいことではない。偏見を受けた側の気持ちを考えたら、きっと悔しいような哀しいような複雑な想いでいっぱいになるはずだ。そんな想いをさせた方もロクなことにはならない。しかし、人間というものは、思考の中に、かなり多くの偏見を保持している生き物なのである。どこまでを偏見と定義するか、ということもあるけれど、ある意味、何かを判断するとき、ほとんどが偏見が混じっていると考えても間違いではないように思う。判断する、と考えた段階で、すでに100%純粋な心で観ようとしていないのかもしれない。なぜなら、判断材料には必ず過去の記憶が使われるからだ。

そんなわけでだから、出来るだけ意識して、過去の記憶を優先せず、偏見無く、今ここに観えているものだけを自分の中に入れる、というような気持ちを持ち続けるようになった。その結果、出来るだけ過去の記憶を使わないように、と思うようになったのである。

過去の記憶を使わなければ、過去を材料にして文章を書くことも出来ない。がんばって過去抜きで文章を書こうとしても、ぼくのスタイルでは、うまく構成出来ないために、絞り出すように短い文章を書いて、あとは何も浮かばなくなってしまい、結局、ボツにする繰り返し。

今ここに生きる、というのは、過去を否定することではない。過去の記憶で照らして、現在を判断しても無意味である、ということである。だから、過去を材料にして文章を書くこと自体は、偏見とは別な話であり、問題ないとは思うのだけれど、その切り分けのようなものが、ぼくの中でうまく出来ていない、ということなのだと思う。

もしそれが書けなくなった理由だとしたら、いつか、しっかりと切り分けが出来るようになれば、書けるようになるはずだ。そして、そうならなければならない。そうでなければ、「今ここ」に生きている意味が半減してしまう。「今ここ」にいれば、過去にも未来にも囚われず、自由なはずなのに、不自由になっているわけだから。というより、自由になれていないのだから「今ここ」に生きているつもりで、そのレベルまで辿り着いていない、ということなのだろうと思う。


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