目覚めのときの景色
投稿:2013年7月7日
更新:2015年3月21日
Photo by ham (EOS400)
この写真は、記録によると、2004年1月3日に撮影したものだ。年末年始に、岩手に帰省して、それから自宅に戻るとき、国道284号線の途中、北上川を渡る大きな橋でシャッターを切った。
今のぼくは、このような写真を撮ることはないけれど、当時はコンパクトデジタルカメラを常に持ち歩く形で使っており、今よりももっと気軽に撮影していた。片手で操作出来るものだから、運転しながら(もちろん、ファインダーをのぞいたりはしない、危ないからね。)カンでシャッターを切ったりしていた。
この日の前後の写真を見てみると、同級会をしたり仲良しの友人たちと飲みに行ったり、カラオケしたりしている。そして、どうやら、上の娘も一緒だったようだ。まだ小学生だった娘が笑顔で写ったりしている。今は亡き、実家の犬も元気だ。震災前の大船渡や陸前高田の景色が懐かしい。
何気ない写真でも自分の行動の記録としてみた場合、どんなにピンボケでも役に立つものだなと思いながら、少し時間をかけて見入ってしまった。特に何か理由があったわけではないのだが、古い写真が入ってるフォルダをあけて、ぼんやりと見ていたら、この写真を見つけた。そして、当時の様子を思い出すきっかけになった。
この頃のぼくは、スピリチュアルに触れ始めたぐらいの頃である。オーラが視えてしまったのはこの直後だと思う。そして、アマゾンの注文履歴をみると、江原さんの書籍の一気買い(16冊)の記録が残っている。同じ注文の中に小倉優子ちゃんの写真集も含まれているところが微笑ましい(笑)
あの頃のぼくは、いろんな面で行き詰まりを感じていた。仕事もプライベートも進むべき道を見失った迷子の状態だった。年収は今の倍以上あって、多分、当時の同世代のサラリーマンの何倍も稼いでいたと思うけど、その分だけ税金や保険料などが重くのしかかり、働いた分だけ罰を受けているような気分になっていた。しかも、金遣いは荒く、ほとんど残らないばかりか、借金までしてしまう始末。とにかくバランスを失っていたのである。
それから、まわりで自殺する人も少なくなかった。ぼくに相談をした後に、死んでいく人もいた。これはやるせない。やりきれない。どうも出来ない辛さである。この頃、ぼくも生きるのが辛かった。
反面、よく、旅をしていたのもこの頃である。毎週、群馬や長野、新潟などに行って、ネット仲間と会ったり、ひとりで温泉に泊ったり、車の中で寝たりしていた。何かを探していた、というよりは、一度しかない人生なのだから、とことん楽しもうとしていたのかもしれない。
ある意味、すごく密度の濃い時間の使い方をしていたかもしれない。もちろん、それは三次元的にだけど。
そして、そんな状態になった後、気付きがあったのである。まるで、何もかもがおぜん立てされたかのように、ぼくの前で、すべてが完璧な出来事として起こった。何もかも完璧にである。そして、ぼくは単なるオカルトとしてではない、あの世の存在を考えるようになる。
最初に考えたのは、魂のこと。
それから、カルマの法則や引き寄せの法則のこと。
霊界のこと。
次に考えたのは、宇宙のこと。
それから、無条件の愛や、神についてのこと。
そして、そこまで考えた後は、
宇宙と愛と神は同じものであること。
それから、この世とあの世の結び付きについて。
ここまでが、ぼくのスピリチュアル第一期と呼んでもいいと思う。ある意味、区切りとして考えることが出来るから。第二期の話は、また別の機会にするとして、とにかくスピリチュアルというものに触れたおかげで、生き方が随分と変わったなあと思う。そして、当時、辛いなあと思っていたことのほとんどは解決した。
そもそも、せこい話かもしれないけれど、それまでのぼくは、お金があればあるほど、幸せになれる可能性が高い、と本気で思っていたけれど、それがなくなったことが一番の変化かもしれない。今のぼくは、お金に関係なく、幸せを感じながら生きている。それが出来るのは、幸せは外側からやってくるものではなく、常に自分の中にあるものだからということがわかったからだ。
今日の写真は、そんな変化の始まり、目覚めたぐらいのときのぼくが撮影した景色である。
そう言いきると、なんだか、とてもぴったりな風に撮れているではないか、と思って掲載してみた。
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