豊かさとはなんだ?

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Photo by ham(7D)

うちに、ねここが来てから、もうすぐ1年になる。ねここは、メスの4歳。写真の通り、こげ茶のトラ猫だ。

最初は、ぼくの部屋の棚の隅などに隠れたまま、何日も出てこなかった。それがもう、すっかり慣れて、家の真ん中で伸びをして転がるようになった。それは、とてもいいことだ。いくらでも大きな顔をして、寝そべってほしい。ここはキミの家だよ、好きなようにくつろいでね、とぼくは思う。

ねここは、まだ生まれたばかりの頃、野良でうろうろしていたところを、最初の飼い主である女性に保護された。この女性は、野良猫を見つけると保護して、怪我をしていれば病院に連れて行き、そうでなくても予防注射や去勢を行って、猫たちの里親を見つける活動をされている。この女性がいなかったら、ねここは生きていなかったかもしれない。そう思うと、ぼくはこの会ったことのない女性に、どれだけ感謝してもし足りないぐらいの思いがある。改めて、ねここに代わってご挨拶したい。

ふと、ねここが生まれる瞬間を想像してみる。お母さんにゃんこは、ねここと同じようなこげ茶のトラだろうか。それとも実は真っ白とか真っ黒の猫だったりするのだろうか。とにかく、ねここは、ある日ある場所で、どこかのお母さんにゃんこから生まれた。それは、春、桜が咲き始めた頃だったらしい。お腹の大きなお母さんにゃんこから、何匹も子猫の赤ちゃんが産み落とされる、その中の一匹が、ねここだ。きっと、今、たまに甘えるときに出す声と同じように、みゃあみゅあ、かわいい声で鳴いて、おっぱいをねだったのだろう。よちよちでふにふにで、やっとのことでお母さんに抱きついて、それから、思い切り安心の中で、おっぱいを吸ったのだろうか。あったかいなあ、気持ちいいなあって思いながら、眠っただろうか。そんなことを想像していると泣けて来て仕方がない。

それはもちろん命に対する感動でもあるけれど、別離の寂しさでもある。当の本人は、どう思っているのか、ほんとうのところはわからないけれど、ぼくから見れば、一番安心出来るお母さん猫のいる場所から引き離されて、遠く離れた、ぼくのところにいるわけだから、それはとても寂しいことなのではないか。自分の母親に一生会うこともないだろう。寂しいではないか。

その証拠に、急に甘えん坊になって、すり寄って来て、ぼくに寄りかかりながら、前足をふみふみしながら、自分のおっぱいを吸うのだ。ぼくに寄りかかって、ぼくの体温を感じながら、昔、感じた安心のときを思い出して浸っている気がする。そんなねここを、ぼくは決してほっとけない。人類を代表して、ねこ族に愛を贈りたい。

ねこLOVEねこLOVEねこLOVE

そんなうちのねここなんだけど、この子も、いろんな縁がなかったら、子猫のときに、保健所に捕獲されて殺されていたかもしれない。しかし、それは、あってはならないことだ。

日本は経済大国で、とても豊かな国であり、これからもますます豊かになるために、原発が必要だとか、TPPが必要だとか、とにかく、必要なものが沢山あって、それをどんどん実現することで、豊かさが倍増していくらしい。

でも、そんなことは、ぼくに言わせれば、豊かさでも何でもない。

道を歩いている猫や犬を捕獲して、何の権利もないクセに、ただ邪魔だから、捕まえて、殺してしまう国に、豊かさなんてない。猫一匹幸せに出来ない国に人間を幸せに出来るわけがない。

人間の勝手な都合で、ペットを捨ててしまう人間がいる国が幸せになれるわけがない。こんなことを書いたら、非難されるかもしれないけれど、自分の子供(まだ話の出来ない赤ん坊はのぞく)を捨てても、ペットを捨ててはダメだ。なぜなら、子供たちは口を利けるけど、ペットたちはただ鳴くしか出来ないのだから。

ぼくらの豊かは、必ずと言っていいほど、人間のことしか考えてない。そして、豊かを実現するために、必ず、どこかの何かを破壊している、ということに、そろそろ気付いてもいいころだ。

とぼくは思っている。


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