旅に出るということ(旅に出たいな)
投稿:2014年9月18日
更新:2016年9月8日
Photo by taka (31MR)
旅に出たいなと思う。観光をしたいわけではない。何かを観たり食べたりしながら、体験するのも楽しいけれども、今のぼくは、そういうことを望んではいない。それは、旅立ちのときと、我が家に戻ってきたときで、明らかに、違うぼくになっているような旅だ。そんな旅なら、目的地が、例え、隣町でも構わない。
とは言え、そのような旅を経験したことは、数えるぐらいしかない。
まず、最初に思い出したのは、ぼくのスピリチュアルな気付きのきっかけになった、長野県の松本市への旅の記憶だ。
当時、ぼくは頻繁に松本に行った。特急電車を使うときもあったし、高速道路を運転して行くときもあった。いつも、恋人に逢いに行くようなトキメキのまま、松本を目指した。
松本という街は、ぼくの中で創られた個人的な印象だと思うけれど、岩手県の一関に似た雰囲気を持っていた。一関で多感な高校時代を過ごしたぼくにとって、松本もまた、とても魅力的な街だった。
そして、そこで、(結果的にだけど)霊的な次元を感じるようになり、この道に入ったのである。(どの道だよ!?(笑))
この話の詳細は、以前書いたことがあるので、ここでは書かないが、これはぼくにとって、人生を決定する要素のひとつになった、想い出深い旅であると言える。
次に思い出したのは、311の震災の前の年、ぼくが無職生活を送っていたときのことだ。このとき、せっかく無職になったのだからと、自由な時間を利用して、東北を回ったり、中国、四国の方まで足を延ばしたりした。
但し、これらは、旅と言えるような感じではなかった。そして、観光というものでもなかった。あえて言うなら、移動、という言葉があてはまるような感じだった。今思えば、これらの時間は、それから始まる旅の準備だったように思うが。
いい加減あちこち回ったあと、自宅に戻った。それから、ほとんど家から出ずに、ひきこもったまま、2カ月ほど過ごしたのである。本当にどこにも行かなかった。近所を散歩することもほとんどなかった。しかし、これは今思えば、ぼくにとっての「無職生活」という旅だったように思う。
「無職生活」と書くとなんだか節約倹約しながら仕事を探していた、みたいなイメージにもとられてしまうかもしれないけれど、違う。ぼくは、このとき、いくつかの仕事を断りながら、部屋にこもっていたのである。とにかく世間と隔てた状態で、だらだらと過ごしてみたのである。
それはぼくにとって、初めての経験だった。何もせずに2カ月(前段の移動のような旅を含めると4カ月)ぶらぶらと過ごしたのは、たぶん、幼稚園に入園して以来のことだったと思う。
そして、結果的に、ぼくは、大きく変わった。
このときは精神や心の面よりも、身体や体質が大きく、明確に変化した。一番わかりやすい変化は、夜型で朝がとても弱かったぼくが、めざましなしで起きる朝型人間に変わったことである。
こう書くと、なんだ、そんなことか、と思われるかもしれないが、ぼくの朝の弱さは、筋金入りで、本当に自分でも困り果てるぐらい酷くて、社会生活に支障を来たすときもあった。だから、本当に大きな変化だったのである。
このように、物理的な移動を行わなくても、旅を経験することは出来る。
旅に出たいな、と思う。
今の自分をすっかりと手放して、次の自分を獲得するような旅がいい。幻想や執着がこびりついたぼくを洗い流すような旅になるといい。
何もかも新しく、何もかも古い、そんなぼくが、そこにいるといい。
今よりも、もっと人に優しくなれる、そんなぼくが、そこにいるといい。
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