自分に甘える、自分を許す
投稿:2014年8月14日
更新:2016年9月8日
Photo by taka (7D)
最近、なんだか、さみしいな、と思う。切なる寂しさではなく、ぼんやりとしたさみしさだ。ぼんやりとしているけれど、ずっしりと重たいさみしさだ。これは、単純に、人がいないさみしさではない。甘えたくても甘えられない、もしくは、甘えられる対象がいないことによるさみしさだ。
おっさんが、甘ったれたことを言ってるなあと思う。でも、たまには溶けてしまうぐらい甘えたいと思うときもあるのだ。孤独が好きなぼくでも、心を委ねられる人がいれば、寄り掛かって休息したくなるときもあるのだ。
一般的な話として、おくさんがいるのだから、おくさんに甘えなさい。と言うことになるのだと思うが、仮にぼくがおくさんに甘えようとしても、うちのおくさんは、決してそれを許さない。甘えさせてはくれないのだ。ぼくが甘えようとした途端に、(他で甘えて来なさい。)ということになる。
かと言って、他で甘えようとしても、適切な相手がいるわけではない。そして、多分、探しても、そんな人は、いないのだろうと思う。心の底から安心して甘えられる人など、滅多にいるもんじゃない。
仮に、手短に誰かに甘えたとしても(そして相手も甘えさせてくれたとしても)、やがて想いは一方通行になり、寂しさが増すだけだ。寂しさだけでなく辛さも加わり、甘えたことを後悔することになる。
だから、やはり結論としては、最初に自分でツッコミを入れたけれど、(おっさんが、甘ったれたことを言うな!)ということになるのだと思う。ぼくは、誰かに甘えるということを、してはいけないのだ。
甘えるとしたら、自分で自分に甘える、ということになるのだと思う。自分で自分の甘ったれた感情を認めてあげた上で、自分を許す。
許すというか、お前はお前だけで完璧だ、ということを、自分に言い聞かせる。そうすれば、誰かに甘えなくても、ぼくはぼくで存在していていいのだ、という気持ちになるような気がする。
以前、まだ独身のとき、ぼくを心の底から甘えさせてくれる人がいた。髪が長くてミニスカートが似合うかわいい人だったけれど、ぼくは、彼女といるとき、母親の体内でくつろいでいるかのような気分でいられたことを覚えている。一切の不安も心配もなく、ただ彼女の中に入っていられた。
あの頃のぼくは、プライドが高くて自信過剰で偉そうだったけれど、彼女と一緒にいると、虚勢が消えてありのままの自分でいられた。
彼女は、ぼくのすることをすべて受け容れてくれた。ぼくがしてほしいことを察知して尽くしてくれた。彼女がぼくよりも2歳年上だったせいもあるかもしれないが、今思えば、彼女は、ぼくの母にも妻にも彼女にも(そして多分ぼく専用の娼婦にも)なれたと思う。
そんな素晴らしい人と出会えたのに、ぼくは彼女と別れてしまった。ぼくが、つまらないことにこだわって、彼女を振ってしまったのだ。
ぼくが別れの原因を作ったと言え、そもそも、彼女とは、縁がなかったのだ、と思える。いや、縁がなかったわけではない。そういう縁だったのだ。彼女は、ぼくがこだわったつまらないことを乗り越えるために、ぼくと出会ってくれたのだと思う。(実際に、その後、ぼくは、別な人を相手に同じ経験をし、乗り越えた。)
そして、時系列的には、そこから未来の延長線上に現れる、ぼくのおくさんとのつながりを間接的に創造してくれた。そういう意味でも、ぼくの歴史の中ではとても重要な人なのだった。
ちなみに、ぼくがおくさんとの話をすると、なんだか不幸な夫婦のように聞えるかもしれないけれど、そんなことはない。彼女は、人生の伴侶としては、とてもよき人だ。
確かに、甘えさせてくれないし、性生活もないけれど、親友のように、一緒に歩んでくれる。この先、もし何らかの理由で離婚、ということになったとしても、ぼくは、ぼくがこの世から去るまでは、彼女と助け合っていけたらと思っている。
そんなわけで、ぼくは誰かに甘えたいけれど、誰にも甘えない。
甘えたいときには、自分に甘えればいいのだ、ということを、このブログを書きながら思い付いたので、実践してみようと思っている。
夏休み2日めの戯言でした(笑)
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