見えるもの、見えないもの、そしてサヨナラのメッセージ

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Photo by taka (IXY400)

ぼくの過去ブログで見つけた「切ない気持ち」という話を掲載しようと、文章を抜粋する形で記事を書いたのだが、出来上がって読み直したら、どうも今日掲載する内容ではないな、と思い、下書きのまま保存することにした。

ところが何を間違ったのか、知らぬ間に公開してしまっていた^_^; ちょっと迷ったけれど、下書きに戻したので、今は読むことが出来ない状態になっている。もしも、ブログランキングやRSSなどの更新情報で読みに来られた方がいらっしゃったら、申し訳ない。

ブログを投稿しようと思っても、なぜか途中で消えてしまったり、何度アップしても失敗することがある。これは少なくても今は投稿するな、ということなのかも、と諦めたりする。携帯のメールなども送信エラーになったら、その文面は送るな、ということかもと、送信を控えたりする。同じような行動の選択を行う方もいらっしゃると思う。

しかし、今日の場合は、その逆である。掲載するのを控えよう、と思ったのに、何をどう間違えたのか、掲載されてしまった。だから、いつものように考えると、これは掲載しなさい、というメッセージなのかも、とそのまま掲載しても良かったのだが、やはりなんとなく違和感を感じて、ぼくは非公開に戻した。

自分の意図と異なることが起こったときに「見えないもののしわざかも?」と思うのは、思わないよりも全然いいと思う。この世の中は、見えるものと見えないもので出来ているのだから。

だけど、今日、ふと思ったのは、見えないものを崇拝してはいけない、ということである。確かに、見えないものは、高次の存在でいろいろと世話をしてくださってるかもしれない。けれど、ただの悪戯好きの自然霊なのかもしれない。自分ではその気がなくてもその気にさせられているだけなのかもしれない。

最近、なんとなく、もわもわとした人の念のようなものも感じることが多いのだけれど、自分を取り囲む時空環境において、上下左右から正反対の念が、自分目がけて一斉に向かってきたとき、普段は起こらないようなことが身の回りで多発するようにも思う。記事の投稿に賛成なエネルギーもいれば、そうではないエネルギーもいるとしたら、自分の意思とは関係ないところで、自分の意思に反したこと(いつのまにかアップされたりアップ出来なかったり)が起きても不思議ではない。

スピリチュアルに目覚めた人は、見えるものよりも見えないものを優先し、そうでない人は、見えないものなど信用しない。しかし、本当はバランスよく、どちらにも目を向けるのが正しい。何度も言うけど、この世は、見えるものと見えないもので成り立っているのだから。

ハイヤーセルフに護られてるから、そんなおかしな霊にちょっかい出されたりしないよ、と思う方もいらっしゃるかもしれないが、ハイヤーセルフはあえてそのような経験をさせてもいいかな?と考えているかも。

となると、結局、自分で決めるしかない。まあ、これに限らず、どんな場合でも、自分で考え、次を選択するということは、当たり前のことなのだが。

今日の、いつのまにかアップ事件は、ぼくの意思で、一旦取り下げることにした。いつか公開するときもあるかもしれない。

昨日は、不意打ちを食らうように、長く付き合っていた人からサヨナラの言葉が届いた。ハイビスカスが2つ咲いた後、ピタッと咲かなくなってしまったので、これは何かあるな、と思っていたけれど、こういうことだったのか。

耳を澄ますといろんなメッセージが聴こえてくる。どれもこれもがメッセージなのだけれど、それを聴くも自由、聴かぬも自由。聴いたメッセージを聴き流すも自由、解釈して役立てようとするも自由。

最近のぼくは、なんだか冴えないし、どんどん劣化しているような気持ちでいっぱいで、人間として、或いは、魂として、全く向上しているとも思えないのだが、日に日にスピリチュアルな感覚は敏感になって来ているかもしれない。そういう時期なのだろうか。


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