弔う

おみおくりの作法

以前、このブログにも書き記したことがありますが、「Denkikan」という大好きな映画館があります。派手な主張はないけれど存在感はしっかりあって、個性的で穏やかで、心地よい映画館です。そういうわけで、もし選んだ映画がそれほど面白いものではなかったとしても、その空間の居心地のよさで全く許せちゃう、そんな感じです。

今週、そのDenkikanで3本の映画を観ました。そのひとつ「おみおくりの作法」は、本当によかった。シンプルだけど深くて切ない。とても優しい気持ちになるのだけれど、切ない。クスッと小さく笑える場面もさりげなく組み込まれていて愉しい。だけどやっぱり切ない。そして、意外なラストにノックアウト。わたしのなかでは、今のところ今年一番の映画です。

ちょうど、親しくさせていただいていた96歳のおじいさまが亡くなられたばかりだったということもあり、「弔う」ことの意味を改めて考えさせられました。

人と人との接点、繋がりは、それぞれの人生のある一部分においてのこと。言い換えれば、それぞれの人格のある一面においてのこと。それが親子だって夫婦だって、仲の良い双子の姉妹だって、相手のすべてを知ることは不可能なのです。この三次元の世界では。

だからこそ「弔う」ときは、自分のその人(ほんとは人だけでなく生き物でもなんでも)に対する個人的な思いを超えて、その人を、その人生をホリスティックに感じ受け止めて、敬意を持ってお見送りしたいと思うのです。

大正、昭和、平成を生きぬいた96歳のおじいさま。わたしが親しくさせていただいたのは、今生の最後のほんの数年間だけでしたが、戦時下では、多くの兵士が命を落としたブーゲンビル島でセミやトカゲまで食べて生き抜いた強い生命力を持ち、老後は水彩画や書を嗜まれ、90歳を過ぎても彼女ができちゃう素敵な方でした。おつかれさまでした。そして、ありがとうございました。