ねこここここ

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Photo by taka (PC7)

ねここをシルバーで染めてみました。
なんてね、嘘、これは、先代のねこである。

彼女は、15年生きて、そして天に帰って行った。

この写真はそうでもないけれど、常に哲学をしているような、なんとなく気難しい顔をしたねこだった。特に晩年は、次回の転生は人間だ、と確信するような賢い行動も多かった。仕草ひとつひとつにも余計な部分がなく合理的で、鳴き声も短かった。そもそも、滅多に鳴かなかったように記憶している。彼女に比べると、ねここの方がアバウトで、きままな感じである。ねここはおしゃべりだし、鳴き声も表情豊かだ。今も、横で、何かしゃべってる。

そんな正反対のような性格の2人だけど、ぼくとの出会いは、よく似ていて、ねここも、彼女も、貰い手がないから、引き取ってくれないか、というような縁で、ぼくのところに来た。どちらも頼まれたとき、最初は断ったのだが、断りきれなくなって、了承してしまった。どうも、ぼくの人生のやることリストの中に「ねこと暮らす」という任務が入っているらしい。しかも最低2回分(笑)

どちらのねこも、ぼくによく懐いてくれて、有り難いなあと思う。そして、眼も顔もまん丸で、しっぽもキュート、とてもかわいらしい。
どちらのねこも、名前を呼ぶと犬のように走って来る。思わず抱きしめたくなる。もちろん、本当に抱き締めるときもある。けれど、どちらのねこも抱かれるのは苦手なようで、抱っこしている間は、我慢の表情になる。早く終わらないかなあという気持ちが伝わって来る。「甘えんぼうだけど、束縛されるのは嫌いなの!」みたいな感じかな?^_^

ところで、ねことコミュニケーションするとき、ねこは、人間の言葉を話せないから、人間が、ねこを理解してあげなければならない。ねこの気持ちがわかるときもあるけれど、半分以上はわからないまま、勝手に解釈するしかない。お互いが元気なうちはいいけれど、人間が旅行で留守にするときや、ねこがどこか調子が悪そうにしているときなど、言葉が通じたら、どんなにいいだろうと思ったりする。だが、それは無理なのだ。

そんなねこたちだから、ぼくはちゃんとまもってあげたいと思っている。ある部分では、自分の子供たちよりも、ちゃんとまもってあげなければ、と思っている部分もある。それは異常だよ、という方もいらっしゃるかもしれないけれど、理由ははっきりしている。さっきも書いたけれど、ねこは、人間の言葉が話せないのだ。子供らは、ぼくがいなくても、逞しく生きて行く可能性が高いけれど、ねこたちは、最悪、殺されてしまう。それも、自分たちの意に反して、自分たちの想いを言葉で伝えることも出来ずに、ある日、突然である。こんな理不尽なことが許されていいわけがない、とぼくは思う。ぼくの中には、ぼくよりも社会的に弱い立場にいるねこたちを守らなければ、という使命感がある。少なくても、ぼくと縁があるねこたちだけでも。

今の地球上の人間社会では、ねこの命と人間の命を比べた時、人間の命の方が大切ということになっている。日本なんかは、もっと酷くて、ねこはモノとして扱われている。人間は道に迷えば迷子だけど、ねこは落し物だ。しかも、本当に落し物なら、ある程度一定の期間、保管されるわけだけど、ねこやイヌたちは、処分という言葉ですぐに殺されてしまう可能性が高い。とても悲しいことだ。

人間の暮らしを最優先に考える社会は、必ず、いつか滅ぶ。なぜなら、人間のやり方で人間の暮らしを最優先したら、最後には、人間しかいなくなってしまうからだ。人間は、人間だけでは絶対に暮らしていけない。人間だけになったら、まもなく人間も消滅してしまうだろう。でも、そのことに気付いている人は、あまり多くない。


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