片想い、両想い、片想い


photo by taka (7D)

人の想いの大きさは、推測することしか出来ない。
まして、その想いの中にあるものなんて、計り知れないものだ。

両想い。
少年の頃から憧れていた言葉、または状態。

好きな女の子と両想いになれたらいいな。

いつか、きっと、ぼくにも
そういうときが訪れるはずだ、と
心から、待ち望んでいた。

だが、ついに、10代のうちでは
まさに、これが、両想いだ、
と実感するような経験は出来なかった。

好きな女の子と付き合うことは出来ても
ぼくの想いが、相手の想いと一致している実感を
感じることはなかった。

それどころか、好きになればなるほど
いつか、この子は、ぼくの前からいなくなる、
と思い始める。

そして、そういう予感は
なぜか、必ず、あたるのだった。

ぼくの10代は、恋愛に関しては
散々な想い出しかないような気がする。

20代になり、社会人になってからは
両想いになったらいいな、とか、考えなくなった。

あの頃のぼくは
自分の想いとか、相手の想いとか
そんなことは考えなくなっていた。

付き合っている事実だけで
満足していたのだろうか。

相手がどう思っていようが
自分が好きなら、それでいいではないか、
というような気持ちには
まだ達していない頃である。

だから、彼女がいて、デートしたりセックスしたりして
それだけで楽しい、と思えてたのかも。

あるいは、もしかすると、あの頃の女性たちは
ぼくが気づかない、思いもよらないところで
大きく包むようにして
常にぼくの欲求を満たしてくれていたのかもしれない。

もしもそうなら
その分だけ、彼女たちは
ぼくの想いに不安や物足りなさを感じていたかも。

ぼくが10代のころ
好きな女の子たちに思っていた気持ちに似た
夢中になればなるほど早く終わる
短い映画のような。

その後、年齢を重ねて、経験を通して
さっき書いたように

「相手がどう思っていようが
 自分が好きなら、それでいいではないか」

というような境地を知る。

それは、もちろん、今でも真理だと思ってるけれど
今、思えば、
「どんなに頑張っても
 他人の心をコントロールすることなんて出来ない」
という気づきの裏返しだったのかもしれない。

恋愛というものは
深くなればなるほど辛くなるものである。

その理由は簡単で
お互いの想いの大きさ、強さ、質のギャップが
大きければ大きいほど
その落差に苦しむように出来ているからである。

そして、お互いの想いが一致することなど
滅多にあることではない。

一致したとしても、ほんの一瞬である。

そして
一瞬味わった甘露な記憶を思い出しながら
ますます深みにはまってしまうわけだ。

この深みを脱する方法は、ただひとつ
恋愛のうちの「恋」の部分を
すべて「愛」に変換することなのだろうと思ってる。

そういう理屈で考えると
恋愛している間は
両想い、などという状態はないのかもしれない。


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