ねこねこピクニック
投稿:2014年11月29日
更新:2016年9月8日
Photo by taka (7D)
うちの猫、キャットフード(かりかりのやつ)を食べる際に、その場で食べずに、その時々で、自分の居心地の良い場所まで運んで食べるときがある。例えば、かりかり置き場から、かりかりを口にくわえて運び、朝の日差しが暖かい窓側で食べる、みたいな感じで。まるで、ぼくら人間が、今日は暖かいから、公園のベンチでお昼にしましょう、みたいに。それだけでも、猫は猫なりに、いろいろ考えているんだなあ、と感心するんだけど、先日、もっとすごい光景を観てしまった。
その光景を見るまでは、口にくわえて運ぶのは、かりかり1個だと思っていたのである。ひとつだけ口に入れて、そのまま好きな場所まで歩くのだと思っていた。
ところが、、違うのである。
彼女、一度に5個ぐらいくわえて、移動していたのである。移動先に到着すると、その5個を一旦、口からバラバラと落として床の上に置き、それから、ゆっくりと、ひとつずつ食べるのであった。
運べる分だけ複数個運んだ方が効率的である、というのは人間の考え方だと思っていたけれど、動物だって、普通にそうするのだ。
いやいや、人間でも、運べる分だけ運ぶ、という発想が出来ず、ひとつひとつ運んでは、時間ばかり過ぎて、仕事が終わらず、残業などしちゃう人もいる。(もちろん、あえて、ひとつずつ運ぶ、という行為を選択している場合はのぞく。)
ところが、猫は、当たり前の顔をして、さりげなく効率よく行動しているのだから、やはり、猫はすごい、と思ってみたり。
人間は、自分たちだけが知的生命体であり、他の動植物は何も考えていないのだから、自分たちの好きなように扱ってよい、と考えている。命さえ奪っても構わないと考えている。
だが、それは、とても愚かな考え方だ。動物、植物を観察していると、動物はもちろん、植物にだって心があるのではないか、と感じることは少なくない。それぞれの種族によって、命や知性の表現の形は違うけれど、どれもみな、それぞれが、知的で美しい。
美しいというような評価は、ぼくだけのものかもしれないけれど、そもそも、どれも命がある、ということは紛れもない事実であり、人間たちも認識していることである。
命があるものを、ぼくら人間が、好きなように扱っていいのだろうか。無条件に命を奪い続けていいのだろうか。いや、いいわけがない。いいわけがないことに、気付く人たちが、増えつつある。
それは、とてもいいことだ。
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