生きることこそ、スピリチュアルである、と思ったとき
投稿:2014年8月15日
更新:2016年9月8日
Photo by taka (7D)
地球を救えブログを書いていたときは、自分の内面の状態に関係なく、スピな記事を載せていこうと考えていた。楽しい日も悲しい日も、冒頭の挨拶で書き添える日常の中に、それらの気持ちを表現することはあっても、ぼくの内面をテーマにした記事を、スピリチュアルとして扱うような記事は、ほとんど書いていなかったと思う。
あの頃は、例え、その日に書こうとしていることが、他のどこかからの受け売りな内容や言葉だとしても、それを広めていくのが良しと思えるのならば、どんどん書いていこうとしていた。誰かが気付きを得れば、それでいいと思っていたからだ。著作権を侵害したり盗作するつもりはなかったけれど(宇宙には著作権や所有権はないけれど、地球上ではルール違反になるからね)出来るだけそのようなことがらに囚われないように心がけていた。もちろん引用する場合には、それを明記していた。
今思えば、そんなゆるい枠組みで自由に書いていたから、あれだけ毎日のように更新出来ていたのだと思う。
最近、更新するのが辛いなあと思いながら、昔を振り返ると、そんな感じだった。オリジナリティに欠ける部分はあったが、ぼくにとって、そういう時期は、必要だったのだろうな、と思う。
いろいろな面で、徹底して書いていた頃もあったから、むしろ、読む側にとっては、当時のぼくの方が(当時のブログの方が)スピリチュアルだなあと感じられるかもしれない。
だが、ぼくは、あるとき、気付いたのだ。
霊能力を使うとか、奇跡を起こすとか、そういうものがスピリチュアルなのではなく、生きることこそ、スピリチュアルである、ということを。
そして、誰かの言葉ではなく、借り物の言葉ではなく、自分の言葉で、自分の内面から出てきたものだけで、スピリチュアルなブログをこしらえてみよう、と思った。それが、地球を救えブログを終わらせる大きな理由にもなっている。(それだけじゃないけどね。)
しかし、そう、ほいほいと、自分の中から、自分の奥底から、自分の内面のどこかかから、ありがたい言葉や、気付きのメッセージなど、出て来るわけでもないから、それらをもとにブログを書こうとしても、なかなか、難しいのである。
実際のところ、地球を救えブログに比べると、外面的には、スピリチュアルな記事はぐっと減り、ぼくの内面の迷いがにじみ出たような、ちょっとダークなブログになってしまっているように見えるかも。
それは、たまに頂く、読者の方からのメールにも現れていて、以前なら、スピに関する共感やアイデアなど、ウキウキするようなメールが多かったのだけれど、今は、ぼくの精神状態を心配するメールが多くなってしまった。
それはとてもありがたいことだし、感謝しているし、これこそ無償の愛だなあとじんわりと温かくなるのだけれど、もしかして、ぼくは、ネガティブな波動を広めてしまっているのかも思ったり。
えーと、心配は不要です(笑)
ただ、最近の(特に311以降の)世界や日本の不安定な状態の中で、複雑な気持ちを抱きながら、自分の内面に正直に向き合い、ここに記していくことは、それなりに覚悟が必要なことであることも気付いている。それなのに、このぼくと来たら、そこに向かう100%の勇気が、まだ準備出来ていない実感もあって、そういう面からも、不安定な心がブログに現れてしまっているのだと思う。
とりあえず、そんな状態だから、今は、日々の人間関係や状況と、ちまちまやり合っていることしか書けていないし、それもまた、ぼくやみなさんのスピリチュアルなのだ、と思っている。
ところで、生きることこそ、スピリチュアルである、と言ったけれど、ただ流されて生きているだけでは、スピリチュアルではない。生きていることを意識して生きるのがスピリチュアルである。そういう意味では、今の日本人で、スピリチュアルな人は、どれだけいるのだろう。
偉そうなことを言っているけれど、ぼくも流されてしまっている人の一人だ。たまに我に返って、これではいかん!と思い立ち、なんとか生きようとする、その繰り返しだ。
ぼくの役割は、自分も含めて、生きることを意識して生きる人を増やすことなのかもしれないなあ、と、今、なんとなく思った。
ちなみに、世の中を仕切っている存在たちは、ぼくらが生きることを意識しなくても生きていけるように仕向けている。その方が、管理する側は、何かと都合がいいからだ。そして、ぼくらは意識せずに生きるのは楽だから、そのまま流されようとしてしまっている。でも、ぼくは、それは、ぼくらの魂の望むところではないのだ、と考えている。
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