10年前の堕天使、10年後のぼく
投稿:2013年11月9日
更新:2015年3月22日
Photo by taka (IXY400)
画像ファイルの記録をみると、10年前の11月12日に撮った写真らしい。この時の珈琲の味は、もう忘れてしまったけれど、この場の雰囲気は、今でもよく覚えている。そして、この後、ぼくは「スピリチュアルな気付き」を体験する。
ここは、長野県の松本。テーブルの向こう側には、堕天使のような少女が1人。透き通るような真っ白な少女だった。ひょんなことから彼女と知り合いになり、時計の博物館で過ごした後、2人でお茶を飲んでいる。彼女は、確か、ローズヒップティーを飲んで、一口飲むたびに、酸っぱいからと、しかめっ面をしていたことをよく覚えている。おどけていたのか、本当に酸っぱかったのか、今では確かめようもないけれど。
今、あれから10年経つのか、と驚いている。ぼくがスピな気付きを受けた時期は、数年前のことだ、と思っていたが、とうとう10年前になってしまっていた。そして、こうして、10年という時の流れを突然のように振り返りながら、堕天使と過ごしたのが、時計の博物館だったのだ、ということが、なんだか奇妙で面白い。
10年かあ、そんなになるのかな、という思いと、まだ10年しか経ってないのか、という思いがある。スピリチュアルな気付きは、忘れているだけで、本当は、生まれたときから自分の中にあるのだけれど、それを思い出す、という形で気付きが得られるから、少し前に気付いたことでも、ずっと前から知っている、ということであり、思い返しても、外側の体験のような時系列的な感覚とは異なって認識されるのかもしれない。
気付きとはなんだ?と聞かれても、なかなか説明は難しいが、実際に、気付きを得た後のことは、ある程度、具体的に説明することが出来る。
ぼくの場合は、世界観が、がらっと変化した。一瞬で変化したわけではない。徐々にではあるけれど、段階的にではあるけれど、短期間の間に、かなり確実に、明確に変化を感じた。その変化の様子は、思い出すことが出来る。
今の思い付きで(じっくりと考えれば他にももっとあるとは思うが)、変化を一言で表すとすれば、欲望の取り扱い方が変わった、ということだと思う。
気付きの前では、ぼくの中に(もしくは、目の前に)欲望が生まれると、それは、叶えられなければならなかった。叶えられなければ、幸せになれないと思っていた。叶えることが勝利だった。人生とは、叶えた(叶えられた)欲望の数で幸せの度合いが決まる、というような生き方をしていた。
従って、ある程度、無理をしてでも、欲望を叶えようとしていた。それは人間の本能であり、性能であり、善であると思っていた。
気付きの後では、そこにある欲望と、ぼくの人生とは何の関係もないことがわかった。(思い出した)そして、実際に、何の関係もなくなっていた。幸せになるためには、幸せな状態で在ることを選択すればよいこともわかった。また言い換えれば、どんなに素晴らしいことがあっても、幸せで在ることを選択しない限り、決して幸せにはなれない、ということもわかった。
もちろん、この三次元で生きていると、いろんなことがあるし、ぼくもまだまだ修行中の身であるから、常に、幸せで在ることを選択出来るわけではない。在ることを選択することの難しさも日々痛感している。
と、こんなことを書いていると、じゃあ、欲望はどうするの?叶えたらいけないの?スピリチュアルな方法で行動を選択してたらって感動がなくなるんじゃない?って思う方もいらっしゃるかも。でも、そんなことはない。叶えたい欲望は叶えていい。そして、そこには、強い感動があった方がいいのだ。感動は、魂が望んでいることだから。
ただ、その叶え方について、自分としての在り方から外れたような叶え方をすると、途端にギャップが発生し、調和も崩れ、うまくいかないと思う。叶ったとしても、その反動があると思う。反動は、何かの理由で増幅され、叶ったときの倍以上の大きさで、自分に跳ね返ってくるかもしれない。(脅しているわけではない、実際にそういうもんだ。)
ありのままの大切さ、というのは、そういうことなんだと思う。
ありのまま、という意味には、なすがままに、という部分もあるけれど、それよりも「在り」のまま=自分としての在り方を貫いた、というような意味合いがあると思っている。それは決してエゴを貫くのではなく、魂の欲することを貫くという意味だ。その先には、神として在る、ということにつながっていく。なぜなら、ぼくらは、みんな、神の子であり、神そのものだから。
自分としての在り方を忘れず(=いつも内面に目を向けて、外側の世界に振り回されず)に在ることを実践すれば、それは常に幸せなのだ。
10年前に気付きを受けてから、ここまで歩いて来た。
いろいろな人と出会い、たくさんの経験をしてきた。
ここから、また10年、ぼくは歩く。
どんな人と出会い、どんな体験をするのだろう。
歩いて歩いて、10年後のぼくに辿り着いたとき、そこで、ぼくは何を思っているだろう。
この文章を読んでいるだろうか。
ハロー、10年後のぼく、お元気?
相変わらずの日々かい?
それとも?
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