ねこねこピクニック

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Photo by taka (7D)

うちの猫、キャットフード(かりかりのやつ)を食べる際に、その場で食べずに、その時々で、自分の居心地の良い場所まで運んで食べるときがある。例えば、かりかり置き場から、かりかりを口にくわえて運び、朝の日差しが暖かい窓側で食べる、みたいな感じで。まるで、ぼくら人間が、今日は暖かいから、公園のベンチでお昼にしましょう、みたいに。それだけでも、猫は猫なりに、いろいろ考えているんだなあ、と感心するんだけど、先日、もっとすごい光景を観てしまった。

その光景を見るまでは、口にくわえて運ぶのは、かりかり1個だと思っていたのである。ひとつだけ口に入れて、そのまま好きな場所まで歩くのだと思っていた。

ところが、、違うのである。

彼女、一度に5個ぐらいくわえて、移動していたのである。移動先に到着すると、その5個を一旦、口からバラバラと落として床の上に置き、それから、ゆっくりと、ひとつずつ食べるのであった。

運べる分だけ複数個運んだ方が効率的である、というのは人間の考え方だと思っていたけれど、動物だって、普通にそうするのだ。

いやいや、人間でも、運べる分だけ運ぶ、という発想が出来ず、ひとつひとつ運んでは、時間ばかり過ぎて、仕事が終わらず、残業などしちゃう人もいる。(もちろん、あえて、ひとつずつ運ぶ、という行為を選択している場合はのぞく。)

ところが、猫は、当たり前の顔をして、さりげなく効率よく行動しているのだから、やはり、猫はすごい、と思ってみたり。

人間は、自分たちだけが知的生命体であり、他の動植物は何も考えていないのだから、自分たちの好きなように扱ってよい、と考えている。命さえ奪っても構わないと考えている。

だが、それは、とても愚かな考え方だ。動物、植物を観察していると、動物はもちろん、植物にだって心があるのではないか、と感じることは少なくない。それぞれの種族によって、命や知性の表現の形は違うけれど、どれもみな、それぞれが、知的で美しい。

美しいというような評価は、ぼくだけのものかもしれないけれど、そもそも、どれも命がある、ということは紛れもない事実であり、人間たちも認識していることである。

命があるものを、ぼくら人間が、好きなように扱っていいのだろうか。無条件に命を奪い続けていいのだろうか。いや、いいわけがない。いいわけがないことに、気付く人たちが、増えつつある。

それは、とてもいいことだ。


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