さよなら8月、またきて9月

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Photo by taka (7D)

昨日の午前中、近所を自転車で走っていたら、空の広さに圧倒された。ふと、見上げた空に、急に視界が開けたように感じたのである。いつもより、空が拡がったように見えたのである。近所のことだから、見慣れた景色であるはずなのに、まるでどこかの旅先で見た景色のように思えた。

そのときのぼくは、だらだらと長い上り坂を、無心で走っていた。古い自転車だから、力ずくでチェーンを切ってしまわないよう、ゆっくりと、しかし脚には、めいっぱい力をためて、いたわるように、こいでいた。

そのような、ひとつのことに集中した状態だったから、見上げた空の景色は、空っぽになっていた心の中に、突如出現した別世界のように感じた。いきなり広がった景色は、眼の錯覚なのかもしれない、と思い、何度もパチパチとまばたきしてしまったほどだ。

坂道を上り切った辺りで、とりあえずの推論として、(きっと、空は広がったのではなく、高くなったのだ、もう秋になるのだから)ということになり、それでもぼくの中では、ある種の興奮のような驚きのような気持ちで高ぶってしまっていることを感じていた。

秋の空が高く感じるのは、空気の乾燥度が高いため、空が澄んで見えるからだという。湿気を多く含む夏の太平洋高気圧と、乾いた空気で出来た秋の大陸からの高気圧の違いということらしい。

その理由が正しいならば、このような体験は、世界中のどこにいても出来るような、ありきたりのものではないのだろう。大陸と大海に挟まれた日本のようなところでこそ出来る体験である。それは、ぼくら日本人にとって(というか、少なくても、ぼくにとって)なんとラッキーなことであるか。

空とか雲とか、そんなのどうでもいいよ!と考える方もいらっしゃると思うが、ぼくにとっては、とても大切なことである。

それは、空気と水が、地球に存在するすべてのものにとって、なくてはならないものである、と考えているからだけど、それ以前に、空も雲も見ていて楽しくくつろげるからである。

前に書いたことがあるような気がするけれど、ぼくは、晴れの日も雨の日もおなじぐらい好きだ。従って、晴れた日の明るい爽快な空も、雨の日の暗いどんよりとした空も、どちらもワクワクしてみていられる。

ぼくからの視点では、人間は、自然に対して、共存するよりも征服することを優先している種族のように見える。だから、人間の生活にとって、晴れた日は何かと自分たちに都合がいいから好む人が多いけれど、雨の日は都合が悪いことが多く、雨を嫌ったりする。自分の都合だけで自然を見ていることは、少なくても共存とは言わず、どちらかというと征服してでも、自分たちの生活に合わせてしまいたいと考えているのだ。

確かに、その選択は、昔に比べれば、人間の生活を格段に向上させて来た面もあるかもしれないけれど、自然が、いつもよりもちょっと違った面を見せただけで、人間の社会は簡単に崩されてしまう。

ちょっと考えればわかることだけど、人間が自然を征服することなんて、出来ないのである。どんなに頑丈な砂防ダムを造ったところで土砂崩れは起きるし、どんなに高い防潮堤を造ったところで、それよりも大きな津波は来るのである。

征服するなどと考えず、自然と対話して共存することを心掛ければ、起きている自然災害の半分以上は防げるのではないか。

もっとも、共存を優先すると、今まで無理矢理にでも開発していた様々な部分を諦めることになるので、資本主義的な観点から云えば、大変なダメージになるかもしれない。

経済最優先で、原発がなければ、江戸時代に戻りますよ、と言い切るような人たちにとっては悪夢でしかないかもしれないが、ぼくにとっては、今、このときの方がいろいろな意味で悪夢である。

今では、空から落ちて来た雨水を口で受けて飲むことは、とても危険なことになってしまったけれど、昔は、天からの恵みとしてこんなに喜ばしいことはなかったはずだ。雨水を飲めなくしてしまったのは、ぼくらの選択の結果なのである。

ぼくは、そのことが、とても悲しい。これが悪夢でなくて、何であるのか。

自然と共存しようとするとき、まず最初にすべきことは、空を見上げて、雲を楽しみ、風のにおいをかいで、くつろぐことだ。

これは誰にでも出来ることだ。誰にでも出来るけれど、そうしている人は、そんなに多くない。ぼくの勝手な願いだけれど、そうする人がどんどん増えていってほしいなと思う。


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