改めて無邪気ということについて考えてみる

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Photo by taka(7D)

今朝、電車に乗っている時
無邪気である、ということについて
ぼんやりと考えていた。

無邪気という事は
邪気がないことである。

邪気がない、ということは
自由である、と言うことである。

なぜなら、邪気がないのだから
悪気のかけらもなく

悪がないということは
ルールや戒律など必要なく

そこにいる者たちは
みんなみんな思い思いにのびのびと
まぶしい光のなかで、くつろいでいるのである。

それが無邪気の正体。
自由そのもの。

・・・なんて、ことを
ぼんやりと考えていたのである。

ぼくらが自分で認識していると思っている世界は
実は、実在している世界とは違う。

スピリチュアルな話をしているわけではなく
これは、リアルな話、科学の話だ。

自分の五感で受け取った情報を
脳の中で、何らかの認識を経て
世界がそこにあるように組み立てられる。

組み立てられた世界が
ぼくらが、そこにあると思ってる世界だ。

組み立てる材料は、認識と照らし合わせる
膨大な過去の記憶である。

過去の記憶は
あくまでも体験した記憶だから
これまた、実在のものとは異なる。

邪気にまみれた状態で世界をみれば
なんてひどい世界なんだ、
と思えるような世界が見える

光にまみれた状態で世界を見れば
なんて素晴らしく美しい世界なんだ、
と思えるような世界が見える。

そう考えると
ぼくらの認識している世界は
どれだけ実在とかけ離れてしまうのか
ちょっと恐ろしい気もする。

しかし、これを逆手にとれば
すべては幻想なのだ、ということを思い出す
目覚まし時計に使うことも出来る。

般若心経の前半は
そんな世界のからくりを解き明かしている。

静かに深呼吸して、心を落ち着かせ
自我を黙らせて、透明になる。

ぼくと魂と神さまが
ひとつにつながって
もともとひとつだったことを思い出す。

無邪気なこころでいることは
自由なこころでいること。

なんの束縛もなく
穏やかな日差しのなかで
安心してうたた寝していられること。


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