孤独というよりは孤高でありたい

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Photo by taka (7D)

ここに桜が咲いていたわけではない。
草の上に、桜の花が、はらりとまるごと、落ちたらしい。
もちろん、やらせではない。(ぼくはそんな残酷なことはしない。)

昨日、溢れるように一気に咲く桜の花たちをみていて、集団をイメージしてしまい、恐ろしい気持ちになったという話を書いたけれど、集団から離れて、こうしてひとり一生を終えるサクラもあるのだなと考えたら、それは、ますます、人間の社会に似ていると思えたり。

集団でいることが好きで、独りになったり、自分の中に他人と違う部分があると落ち着かない人もいるけれど、集団でいることが苦痛で、他人との違いは、まったく気にならない(もしくは同じ部分があると落ち着かない)人もいる。

いろいろな人がいて、人それぞれでよいと思うけれど、ぼくは、後者の方だ。

前回のブログに書いたように、ぼくは、集団が苦手だ。

集団と対面することも、集団の一員になることも、ぼくにとっては、気の進むものではない。それらについて無理強いされると苦痛ですらある。集団を意識することがなくても、他人と同じであることに気付くと違和感を感じ、落ち着かない。

かっこつけているわけではない。

ほんとに身体がむずむずして疲れてくる。人混みの中でエネルギーを吸い取られる感じに似ている。西洋医学の観点では、ぼくのような人間は、神経症のような病的な部分もあると診断されるかもしれない。

ただし、集団でいても平気なときもある。

それは予め、ぼくのなかで、その集団を認めている場合だ。認めているというのは、単に知っているだけではだめで、ある程度、そのものについて納得している、という状態でなければならない。

現在の日本のような、自分の意よりも、集団の中で協調していくことを優先するべきである、と判断されがちなところにおいて、社会生活を円滑に送っていくには、ぼくのような性質の人は、とても生きづらいと思う。

まして、ぼくのような性質ではない人には、この気持ちというか状態は、たぶん、ほとんど理解出来ないものだと思うから、ますます生きづらい。

ただのわがままな人間か、変人と思われるだけだと思う。

何と思われてもいいけれど、それは本意ではないし、はっきりと、不当だなと思う。ただ、この世の中の状況をみたとき、そう思われても仕方ないかな、とも思っている。

ところで、集団に協調するということは、とても正しいように聞こえるけれど、いつでもそれが成り立つわけではない。

集団を構成する自立した個々の意がまとめられた総意と協調なら、まだ従おうと思う余地もある。しかし、今の日本では、何らかの力を持つ一部の人間が考えた意に、論理的な理由もなく雰囲気や目先の利益(或いはほぼ強制的に)で賛成しているような集団が少なくない。

ぼくはそのような集団に近づきたくないし、そのような集団に、ぼくの行動を決められるのはごめんだ。

その想いは、東日本大震災のあとの日本の社会を構成する集団を眺めているうちに、余計に強くなった。

生意気な奴め、と言われても、ぼくはぼくのままでいたい。
たとえ、地球上の人類全員から、仲間外れにされたとしても。


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