ぼくがぼくであることをハートに確認する

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Photo by taka (7D)

こんな、いるかいないかわからないようなちっぽけな、ぼくのようなおじさんでも、生きていると、いろいろな出来事に遭遇する。楽しいことも楽しくないことも満遍なく起きている。もちろん、起きている出来事は、ただ起きているだけであり、楽しいとか楽しくないとか決めているのは、自分の内部であることは承知している。それでも、出来事に一喜一憂して、元気になったり失望したり笑ったり怒ったりしているぼくが、ここにいる。

若い頃は、自信だけで走り続けることが出来たから、少々の問題や障害があっても平気だった。それでも、時折、我慢出来ないことも起こる。そんなときは、今思えば酷い話だけど、世間にあたり散らして、気持ちを晴らしていた。もしくは、そこに生まれた(ダークサイドの)エネルギーを爆発的に利用して、駆け抜けていたように思う。そんな行動は、もちろん、褒められたものではないと思うけれど、ある程度までなら、世間も許容してくれていたような気もする。時代背景も味方してくれたのかもしれない。(迷惑かけてしまった方には申し訳ない。)

今は、自信だけでは走り続けることが出来ないのかもしれない、というような迷いが出てしまった。その分、何かあるたびに立ち止まってしまうし、以前よりも、我慢出来ないことは増えた。しかし、その度に世間にあたり散らしていたら、きっと、ぼくは、いろんな意味で、この社会では、生きていけなくなるような状況に追い込まれる可能性が高い。世間の許容度もどんどん縮小している。誰もが余裕のない時代に生きている。

そんな中でも、ぼくが、なんとか(見た目だけでも)普通モードで社会の中に存在していられるのは、やはり、スピリチュアルというものに触れたことが大きいのではないか、と思っている。いつかのある日、10年ぐらい前の頃、ぼくがスピリチュアルな気付きを得られなかったら、今のぼくはなかったと思っている。そんなことをつくづく思う。

例えば、仕事場で理不尽な場面に遭遇する確率は、若い頃よりもずっと高い。さっきも書いたけれど、若いときには、ぼくはぼくの中にあると信じていた揺るぎない自信から引き出したエネルギーにより、圧倒的な破壊力で、理不尽に立ち向かうことが出来た。ぼくは、誰にも負けない、と思っていた。

だが、今は、そのような方法をとることは、ほとんどない。なぜなら、自分の目の前にある理不尽さは、ぼくの中に生まれた理不尽であり、理不尽を創りだしたように見える人にとっては、最善のことをしているだけ、ということが理解出来るからである。その仕組みは、スピリチュアルが教えてくれたものだ。しかも、勝つとか、負けるとか、そんなものもこの世には存在しないこともわかっている。

もちろん、理解出来ても、怒りが止まらないことはある。ぼくの立場(実際は、ぼくのエゴそのもの)からみれば、理不尽さには変わりないのだから。いざ、怒りの火が燃え上がると、その場ですぐに消し止めるのは難しい。自分で自分の制御が出来なくなるレベルまで、すぐに達してしまう。

そこで、ぼくは、そのような怒りを感じたら、何よりも優先して、その場を立ち去り、トイレで手を洗ったり、状況が許せば、散歩に出掛ける。大地を踏みしめ、大地がなければ床でもいいから、とにかくゆっくりと足の裏をつけて歩く。歩きながら、深呼吸をする。ぼくがぼくであることをハートに確認する。それは主に、スピリチュアル、もしくは瞑想の技法で手に入れた行動方式だ。

ぼくは、ぼくがスピリチュアルな気付きを得たのは、ぼくが地球上の人たちに対してスピリチュアリズムのようなものを広める使命があるからかもしれないな、などと思っていたけれど、そんな大それたことはともかくにして、まずは、自分のためだったのかもしれない、と考えている。そもそも、自分のこともしっかりと出来ていない状態で、何かを広められるわけがないのだ。


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