死んだ後の話

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Photo by taka (7D)

ぼくらは、死んだ後、どうなるのだろう。そんなことを考えたことはありますか?もちろん、ほとんどの人は、少なくても一度ぐらいは、ぼんやりとでも、考えたことがあると思う。死んだら、魂になるのか、それとも、それですべてが終わりになるのか。さあ、あなたは、どっちだと思う?

死んだ後のことは、誰にもわからない。霊能力者の人たちはわかっているのかもしれないけれど、それを、公に、誰もが納得出来るような形で、明確に証明出来た人を、ぼくは知らない。

死んだ後、ぼくらはどうなってしまうのだろう。意識も消えて、命は完全に消滅してしまうのか、それとも、魂というものとともに意識が残り、命は続いていくのか。

OSHOは、講話録「禅宣言」の中で、輪廻転生というものは勘違いである、と言っている。とは言え、何もなくなってしまうわけでもないようだ。死んだときの記憶は、エネルギーとなって残るというのである。但し、魂とセットで保存されるわけでなく、切れ切れになって、あちこちに残り、そこで、この世の存在に影響を及ぼすのだという。そして、肝心の本体である存在そのものは、生前の記憶などとは切り離された状態で、大きな存在に溶け込んでいくだけ、ということらしい。大海の中に一滴のしずくが落ちて行くように。すなわち、輪廻転生するからには、記憶と魂がセットで転生を繰り返す必要があるけれど、セットは有り得ない、ということらしい。

OSHOによれば、生後の記憶はすべてマインド(エゴ)であるから、死後は生前の状態、すなわち記憶の落とされた状態に戻る、ということなのだと思う。

ぼくは、OSHOの講話はとっても好きだし、生きる上で参考にしていることも多いけれど、輪廻転生が勘違いである、というOSHOの言葉をそのまま受け入れたいとは思わない。もちろん、100%否定するつもりもないけれど。

確かに、普段、意識に現れていることは、マインドが作りだしたものに他ならない。マインドが作りだしたものは、すべて幻想であるから、死後、それがそのままの形で引き継がれていく、ということは有り得ないとは思う。但し、そのエッセンスは残っていくものだと思っている。そうでなければ、転生して来た意味がないのではないか、と思うからだ。

OSHOとは異なり、神との対話の神は、輪廻転生のシステムを肯定している。ニール氏との著書「神へ帰る」で死後の世界の話が延々と語られている。ぼくはこの話の真偽はともかく、読んでいると、とても安らかになれたことを覚えている。死んだ後は、こうあればいいな、と思うような話である。それはぼくにとっても、すでに死んでしまったぼくの知る大切な人にとってもだ。

以前、このブログの「ツインソウルとツインフレーム」で転生前後の話を書いたことがあるけれど、あのときの話が成り立つとしたら、輪廻転生のシステムが真実でなければならない。OSHOのいうように死後、記憶がそこらじゅうにおきざりにされるようであれば、命(というか記憶)の連続性が失われるからだ。とは言え、ぼくには、どれが正しいのかわからないし、特定の話を信じたり、否定したりするつもりもない。だけど、ぼくの個人的な感覚としては、輪廻転生はあるのだ、と思っていることも、ここに書いておきたい。

興味ないよ、と言いながらも、内心、ぼくはツインの相手を探しているふしがある。無意識に記憶を追っていたり、他の次元の存在にフォーカスを合わせようとしていたりすることがあるからだ。こんな行動も、もしもOSHOの言うとおりだとしたら、単なるマインドのマスターベーションに過ぎないことになるし、神との対話の神の言うとおりだとしたら、その相手はもしかするといつか会えることもあるのかもしれないし、死んだ後は、必ず、会える、ということになる。


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