ふわふわと生きる

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Photo by taka (31MR)

年末年始の連休に入り3日め、慌ただしさとはほとんど無縁のまま、ふわふわと生きている。とても楽ちんだ。何をしていても楽しい。起きていても寝ていても、沈黙のときも、わいわいしているときも。楽しい気持ちでいられるから、慌ただしさすら感じないのかもしれない。

あまりにもふわふわし過ぎて、ブログを書くことさえ忘れていたぐらい。そして、これは多分、いいことだ。なぜなら、ふわふわしていると、エゴの強度が薄れる感じがするから。

たとえば、ぼくは連休と言えども、外出を極端に避ける傾向があった。近所の散歩ぐらいは良しとしても、買い物やイベントに出掛けるとか、滅多にしなかったのである。せっかくの休みの日に、そのような予定を作ることが、面倒で苦痛だったのだ。しかし、今年に入ったぐらいから、あちこち出掛けるのが苦ではなくなって来た。これは、先日、岩合さんのトークショーに行ったことのブログでも、同じようなことを書いた気がする。

若い頃のぼくは、決して出不精ではなかった。楽しい経験をする可能性が高いこのような時間を持つことを好ましく思っていた。ところが、ぼくの中の純粋な欲求の中に、社会のしがらみのようなものが入り込み、自分のハートよりも理性を優先させ続けた結果、社会と交わりを持つことを極端に拒否するようになってしまったのだと思う。

そして、結果、休みの日は、こうでなければならない(心地好さを損なう可能性から社会との遮断を最優先にする)というようなぼくの前提条件のようなものが、年々歳を重ねる毎に固定的に出来上がり、要するにそれは、ぼくの中のエゴなんだけれど、それらがぼく自身の軽やかさをかき消していたのだと思う。

しかし、いつのまにか、ぼくは、軽やかさを取り戻していた。いつのまにか、ふわふわと生きていた。相変わらず社会とは遮断されたいと思うのだけれど、社会との関係性を持ちださなくても社会との接点は持てることに気付いたのかもしれない。それから、(もしも自分の自由を奪うだけのものなら)社会との関係性なんかなくてもいいや、と思い切れる部分も明確になったのだと思う。

ふわふわと生きると書くと、何の考えもなく、ただただ流されている感じがするけれど、ある意味、その通りだし、とは言え、少し違う。

流れに任せて生きてはいるけれど、かと言って、流れには依存していない状態である。

何かを実現するために、日々、努力を重ねることは、とても素晴らしいことだけれど、努力することは自分の心に鞭打って、ルールを決めて、ある時は罰したり、ある時はほめたたえて、目的とする地点に近づいていく繰り返しになるため、よっぽど屈強な意思がないと、何のために努力しているのか、忘れてしまう。

努力をすることが人間としては大切であるように言われることが多いけれど、それは時と場合による。なぜなら、努力というのは、強制を伴うものだから。強制されて何かするのはロクなことではない。自らの意思で、欲求により行為を重ねるのならば良いと思うけれど、苦行を重ねることに大きなメリットはないと思う。それは流れに逆らってボートを漕ぐようなものだ。

ある日までのぼくは、何かを実現するために、努力をしていたと思う。でも、その何かが、何であるのか、わからないまま、努力して来た。いや、わからなかったわけではない。その何かというのは、自由を得るためだ、ということはわかっていた。しかし、自由を得るために、具体的に何をすればよいのか、さらに、どこまで辿り着けばよいのか、等と言う大切なことまでは考えずに、やみくもに努力をしていた。水の流れも、風の向きも何も感じないまま、とにかく漕いでいたようなものである。このときは、努力さえすれば、目的の地に辿り着けるのだ、と思っていたふしがある。しかし、目的地がわからない人間は、決して、目的地に辿り着くことは出来ない。万が一、辿り着いたとしても、そこが目的地だとはわからず、通り過ぎてしまうだろう。

このような無駄な努力は、先程も書いた通り、常に自分のハートに対して強制を伴うことになる。努力のわけは、自由を得るためなのに、そのために、どんどん不自由になっていたのだから、まったく馬鹿らしい話だ。このことに気付いたとき、ぼくは、自分を憐れんだ。そうすることしか出来なかった自分が哀しいと思った。どんどん自分を追い詰めていたことに気付いたから。加えて、社会性との兼ね合いによる無理もたたって、ぼくはくたくたになってしまっていた。

今でも、くたくただし、相変わらず、社会との兼ね合いは大変だなあと思うけれど、努力は不要である、と思えた途端に、ぼくは何かから脱した実感がある。何かしなければ、と思う想いは消滅した。だから、のびのびと出来て、心軽やかにふわふわといられるのかもしれない。

ぼくらは、個々のポリシーとして、「こうすべきだ」というような生き方があるのなら、それに対して、一度、見直してみる必要があると思う。なぜ自分の中に、そのようなルールが出来ているのか、それらは有効に機能しているか、必要以上に自分を縛っていないか、自分の歩むエネルギーになっているのか、などなど、心を空っぽにして、吟味する必要がある。

それは、もしかすると、過去の時代(まだ幼い頃や学生時代など)に外の世界から植え付けられた(洗脳された)何かかもしれない。そこに縛られたまま生き抜くことも悪くはないかもしれないけれど、流れに乗って、軽やかに生きようと思ったら、たまに自分の生き方を見直してメンテナンスしてあげてもいいのだと思う。

今のぼくは、ほとんど努力をしなくなったけれど、だからといって、困るようなことは起きていない。どちらかというと、物事が実現するスピードが速くなった分だけ、以前よりも快適になっていると思う。

努力を否定するわけではない。努力はいいことだ。但し、努力する目的と到達点をしっかりと見極めることが大切である、ということかな。そして、今のぼくは、到達点がここにあることがわかったから、努力の必要がない、ということになるのかもしれない。


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