Policy (ポリシー)

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Photo by Taka (IXY400)

1998年に書いたメモのような短編小説。そして今まで何度かちょっとずつ編集しながら掲載してたので、もう読んだ方もいらっしゃると思うけど、こちらのサイトにも載せておきたくなった。先ほど書いた「ケジメ」についての話にもつながるような気がして。今回は1998年当時の内容をそのまま掲載する。

もちろん、一度、読んだ方や、興味のない方は、読みとばして貰って構わない。

— Policy (ポリシー)—

6月の雨が降っている午後の昼下がり。

 滑り止めの為の円模様のついた急な坂道の中程に小さな喫茶店があった。店の前を通っても気を付けないと見落としてしまうような店の佇まいは、それを建築した人の考えを静かに守り続けるようなクラシックな雰囲気を漂わせていた。茶色の煉瓦の壁の上には青銅で出来た小さな看板が下げられており、店の名前が品良く象られていた。

 その坂道を降りるとバス通りに出る。バス通りは坂道と比べると車や人の往来が多かった。安定した雨は天から垂直に降り注いでおり、気温は低く蒸し暑さはまだ感じられない。そのまましばらくの時間、雨は降り続いた。坂道の両側の側溝には雨水が勢いよく流れていた。

 雨が小ぶりになった頃、バスから降りた近くの高校の女子高校生たちがおしゃべりしながら坂道を登ってきた。色とりどりの傘が華やいで見える。坂道の上の方からは小学生の女の子が布のカバンを下げて歩いて来た。彼女の傘の上ではスヌーピーが楽しく飛び跳ねている。ピアノのおけいこに行く所という雰囲気だ。

 裕輔もバス通りの方から坂道を登っていた。紺色の傘を右手に、左手は手ぶらだ。細身の身体には、まっ白のTシャツとブルージーンズ、それから白のバスケットシューズを履いていた。裕輔にとっては、目をつぶりながら歩いても平気なくらい歩き慣れた坂道だ。喫茶店の前まで来ると立ち止まった。裕輔は店に入る前に身体全体が躊躇っている事を感じた。強い意志を発しないと喫茶店に入る事は出来ないのだろうと思った。そして自分に命令するかのように身体を動かすと、重いドアをやっとの事で開ける事が出来た。ドアにかけられた鈴の音が低く鳴った。

 裕輔は持っていた傘を傘立てに入れ、ゆっくりと店の中を見渡した。見渡すほど広いレイアウトではないし、数え切れない程ここに来ているのに、今まで見渡した事等、一度もなかったはずだが、裕輔はそうした。そして坂道に面した窓際の一番奥に白いワンピース姿の早智子が座っているのを確認した。いつも、彼女が座る席だ。

 彼女の注文したレモンティーは手が付けられないままテーブルの上に置かれていた。彼女はうつむき加減でこっちを見たが、裕輔の知っている早智子とはまるで別人の様な気がした。
「もう、来ていたんだね。待たせちゃったかな。」
「ううん、いいの。さっき来たばかり。」
「雨は小ぶりになって来たようだ。あんまり大袈裟な雨なので君が来れなくなるかもしれないと心配した。」
裕輔はそう言いながら、その方が良かったのに、と思った。

「ごめんなさい。」

早智子が下を向いて言った。早智子の特徴の一つである黒い大きな瞳は涙で潤み、透き通るような白い頬には涙のしずくが絶え間なく流れていた。裕輔は今までの早智子の中で一番きれいだと思った。裕輔の好きだった黒く長い髪は雨のせいかしっとりと濡れており最後になるかもしれない裕輔と早智子の時間の状態を演出しているように感じた。裕輔は早い展開にどぎまぎした。落ち着く暇もない状況を呪った。

「俺は、…………」

裕輔が口を開いた瞬間、早智子の全体が小さく痙攣した様に感じた。裕輔は続きを言うのをやめた。なぜ二人が終わりになるのかをここで証明する必要はない様に感じたからだ。

「謝るなよ。もう、いいんだよ。」
「ごめんなさい。」

裕輔は何も言わなかった。女の子が泣いて謝る時は、例えどんな理由でも許してあげなければならない。それは裕輔のポリシーでもあった。こみ上げてくる悲しさは胸を貫通し喉もとまで上がって来ていた。早智子を抱いていた時の暖かい匂いを思い出していた。そしてそれはもう裕輔のものではないのだと思った。

「早智子」

裕輔は、早智子の顔を見ながら名前を呼び、ゆっくりと肯いた。早智子は裕輔を出来るだけまっすぐに見詰めながらゆっくりと席を立つと小さな息を残して店を出ていった。そして坂道を降りていく早智子の姿を見えなくなるまで目で送った。

 裕輔は胸ポケットから煙草を一本取り出すと、灰皿の中においてある店のマッチを使って、火を付けた。そしてゆっくりと煙を肺の中に吸い込んだ。涙が出そうになるのをこらえるように窓の外を見た。雨上がりの坂道を楽しそうに手をつないで登っていく若いお母さんと女の子が見えた。


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